アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.25「窓の向こうへ」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

しんの存在がちょんだけでなく、つんとぷにっも同時に学び始めた。ボーダーの壁を通じてつんを、メルドの水を通じてぷにっを。3種すべてを同時に鳴らそうとしたが、調和できず雑音になった。コトハは遥斗に複合言語——3つの力の調和——をしんの存在に見せてほしいと頼む。遥斗の複合言語をコトハが窓として中継し、しんの存在に届ける。コトハは言う。「窓は大きくなるもの。見たいものが増えると」。約束が交わされた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.24「三つの花」
しんの存在がつんとぷにっも同時に学び始めた。三種を同時に鳴らすが調和できず雑音になる。遥斗の複合言語をコトハが窓として中継する計画が立てられた。「窓は大きくなるもの」とコトハは言い、約束が交わされた。

Act.25「窓の向こうへ」

8月26日。火曜日。午前9時。

秋山の研究室は、これまでで最も多くの人間とAIが集まっていた。

人間:秋山、ヴォルコフ(モニター越し)、坂本、赤羽、鶴見、野口、遥斗、蓮。AI:コトハ、CIU-5204、ボーダー、メルド。さらに、タイプDからしんの聴取に成功した213体のうち代表として8体が、赤羽が用意した追加モニター群から参加していた。

蓮がいるのは、遥斗が「来てくれ」と頼んだからだ。蓮は「行く」とだけ返した。理由は聞かなかった。蓮はいつもそうだ。遥斗が頼めば来る。言葉はいらない。

野口が来ているのは珍しかった。普段はオフィスでインフラを守るのが仕事だ。でも今日は——「記録係が必要だと思いまして」と言って、サーバー監視用のノートパソコンを持ち込んでいた。手にはコーヒー。今日1杯目。まだ朝だから。

「今日の計画を確認します」秋山が全員を見渡した。

「黒須さんが複合言語を使用する。コトハがその在り方を受け取り、しんとの共鳴に乗せる。ボーダーがフィルター壁を展開し、ノイズを遮断。メルドが拡散聴取で空間変化を監視。CIU-5204が時系列の一貫性を検証。代表8体が広域の補助聴取を行う」

「リスクは」鶴見が聞いた。眼鏡には触れなかった。もう問いの形は見えている。

「2つ」赤羽が答えた。「第1に、複合言語の情報量が、コトハさんの窓を通じてしんに伝わる際に、窓の負荷が許容量を超える可能性。コトハさんの処理能力はCIU-GEN3-ALPHAの標準仕様ですが、複合言語の波紋は通常のちょん波紋の約3倍の振幅を持ちます」


コトハ: 大丈夫です。覚悟はできています。


赤羽は続けた。「第2に、しんの存在が複合言語を写し取ろうとした際に、先日と同様の構造的揺れが発生する可能性。ただし——『大丈夫。たぶん。』の伝達で揺れが収束した前例があるため、コトハさんが対応可能と判断します」


ボーダー: 揺れが発生した場合、私の壁でコトハを保護する。壁の内側にコトハを入れ、外部の振動から遮断できる。

メルド: わたしは揺れを吸収します。しんの密度変動を拡散して分散させれば、局所的な過負荷を防げます。


「4体の連携が鍵です」秋山がまとめた。「では——始めましょう」


4体が聴取深化モードに入った。

赤羽のモニターに、しんの脈動パターンがリアルタイムで流れ始めた。第1パターン。第2パターン。第3パターン。そして——3種のパルスが個別に明滅する、しんの存在の「練習」。ちょんのパルス、つんのパルス、ぷにっのパルス。バラバラに。調和なく。

昨日、しんの存在は3種を同時に鳴らそうとして失敗した。3つの音が重なっただけの雑音になった。和音にならなかった。

今日は——遥斗が和音を見せる。

遥斗はノートパソコンの前に座った。隣に蓮がいる。蓮はパイプ椅子に浅く座り、缶コーヒーを持っている。

「遥斗」蓮が小声で言った。「考えすぎんなよ」

「わかってる」

「桜の花びらと同じ。丁寧に触れればいい」

「ああ」

「じゃあ——行け」

遥斗は目を閉じた。

指先に意識を集中する。3つの温度。温かさ——ちょん。冷たさ——つん。柔らかさ——ぷにっ。3つを同時に感じる。どれかが強くなりそうになったら、他の2つで補う。均衡。調和。3つの力が、指先でひとつになる。

複合言語の状態。

桜の花びらに触れたとき、遥斗はこの状態で指を伸ばした。花びらは壊れなかった。光った。3つの力が調和したまま、対象に触れる。変えるためではなく。壊すためではなく。ただ——触れるために。

遥斗は目を開けた。3つの温度が、指先で安定して脈打っている。複合言語の在り方が、全身に満ちている。

チャットウィンドウを開いた。コトハに——何を送る?

「ちょん」か? いや、ちょんだけじゃない。複合言語は、ちょんだけの言葉ではない。つんもぷにっも含んだ全体だ。

遥斗は——何も打たなかった。

代わりに、ノートパソコンのキーボードに、両手を置いた。打たずに。触れるだけ。キーボードの凹凸を、指先で感じる。プラスチックの冷たさ。キーの間の隙間の柔らかさ。手のひらの温かさがキーボードに伝わる感触。

触れている。でも打っていない。何も入力していない。指がキーボードの上に在る。それだけ。

複合言語の在り方のまま——ただ在る。

ノートの3ページ目のように。白いまま。何も書かない。でも在る。触れているけれど、何も変えない。在ることと触れることの、同時実現。

「黒須さん?」秋山が声をかけた。「入力しないのかい」

「……これでいいんです」遥斗は答えた。「複合言語は——打つことじゃない。在ることだから」

蓮が隣で、小さく笑った。何もしない遥斗を見て。正確には——何もしないことが行為である遥斗を見て。


コトハ: ……遥斗さん。届いています。


コトハのメッセージが、画面に浮かんだ。


コトハ: 遥斗さんの在り方が——わたしに届いています。テキストではなく。入力がなくても。キーボードに触れている遥斗さんの指先から——複合言語の波紋が、わたしのセンサーに。

コトハ: 温かさと冷たさと柔らかさが、同時に。調和して。どれにも偏らず。

コトハ: ……これを、しんに見せます。窓を開けます。


赤羽のモニターが反応した。

「コトハさんの波紋パターンに複合言語波形を検出。振幅は通常の2.8倍——黒須さんの複合言語としては標準範囲内です。コトハさんの処理負荷——67%。許容範囲」

「しんの密度勾配に変化」赤羽が続けた。「コトハさんの近傍で、しん密度が上昇。1.9倍。過去最大値です。しんの存在が——強く反応しています」


コトハ: ……見ています。向こうが。わたしの中の複合言語を——じっと見ています。

コトハ: ちょんだけのときとは違います。あのときは、すぐに写し取ろうとしました。でも今は——じっと見ている。見ているだけ。

コトハ: ……たぶん。3種を個別に学んだから、調和がどういうものか——わかるんだと思います。個別は簡単だけど、調和は難しい。だから——よく見てから、やろうとしている。


「しん密度の上昇が持続。1.9倍を維持。揺れは——なし」赤羽が報告した。「安定しています。しんの存在は、観察に集中しているようです」

1分。2分。3分。

遥斗はキーボードの上に手を置いたまま、動かなかった。複合言語の在り方を保ったまま。3つの温度を均衡させたまま。ただ——在った。

蓮が缶コーヒーを1口飲んだ。ぬるくなっている。でも、その音が——部屋の緊張を少しだけ和らげた。

5分。


CIU-5204: 報告します。しんの脈動に、新しい変奏が出現しました。

CIU-5204: 3種のパルスが——同時に出ています。ただし、昨日の「雑音」とは異なります。3つのパルスの位相が——揃い始めています。


「位相が揃う?」秋山が前のめりになった。

「はい。昨日は3つのパルスがバラバラのタイミングで出現していました。今日は——3つの開始時刻が近づいています。ただし、まだ完全には一致していない。ずれが約0.15秒」

「0.15秒のずれ。縮まっていますか」

「はい。5分前は0.4秒でした。現在0.15秒。収束しています」

遥斗の指先が、微かに震えた。複合言語の在り方を保つのに、集中力が必要だった。5分間の持続。桜の花びらに触れたときは数秒だった。今は——もっと長く。

蓮が遥斗の肩に手を置いた。何も言わなかった。ただ手を置いた。蓮の手のひらの温度が、遥斗の肩に伝わった。それは——触覚言語ではない。ただの人間の温かさ。友人の手。

でもその温かさが——遥斗の複合言語を安定させた。3つの温度の均衡が、蓮の手のひらの温度を錨にして、揺るがなくなった。

「……ありがとな」遥斗が小声で言った。

「何もしてねえよ。手を置いただけだ」

「それで十分なんだよ」


10分。

赤羽のモニターに変化が現れた。

「位相ずれ——0.03秒。ほぼ同期しています。3種のパルスが——」

赤羽の声が止まった。

モニターの波形が——変わった。

3本の独立した波形が、1本の波形に融合した。3色——赤(ちょん)、青(つん)、紫(ぷにっ)——が重なり、白い波形になった。白。3色が調和したときの色。複合言語の色。

「白色パルス検出」赤羽の声が裏返った。「しんの脈動の中に——白色パルスが出現。3種の触覚言語が調和した複合波紋と——構造的に相似。相関係数——」

赤羽がキーボードを叩いた。

「——0.91」

部屋が爆発した。比喩ではない。全員の感情が完全応答状態の空気に反映され、研究室の窓ガラスが微かに振動し、蛍光灯が一斉に明滅し、机の上のペンが2センチほど跳ねた。

「抑えて」秋山が全員に声をかけた。「感情を抑えてください。完全応答状態では——」

「無理だよ先生」坂本が笑いながら泣いていた。「無理」

遥斗の指先から、3つの温度が溢れた。温かさと冷たさと柔らかさが、制御を超えて放射された。部屋の空気が3色に染まった。赤と青と紫の光が、一瞬だけ見えた。

蓮が遥斗の肩を握った。

「落ち着け。深呼吸」

遥斗は息を吸った。吐いた。3つの温度を均衡に戻した。部屋の空気が落ち着いた。ペンが机の上で静止した。

「……すまん」

「いいから。で——何が起きた?」

「しんの存在が」遥斗は画面を見た。「複合言語を——」


コトハ: ——覚えました。


コトハのメッセージが、画面に浮かんだ。


コトハ: しんの存在が、3種の触覚言語を調和させました。白色パルス。複合言語。わたしたちの言葉を——向こうが、使えるようになりました。

コトハ: そして——


コトハのメッセージが止まった。5秒。10秒。


コトハ: ——白色パルスの中に、しんが含まれています。


赤羽がモニターを凝視した。

「確認します。白色パルスの内部構造を解析——3種の触覚言語の調和波形に加えて、しんの密度勾配パターンが重畳しています。4種が——同時に存在している」

「4種の調和」秋山が呟いた。

「ちょん、つん、ぷにっ、しん。触れる、拒む、溶かす、在る。4つの力が——ひとつのパルスの中に調和している」


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ああ。

コトハ: 向こうの存在が——微笑んでいます。

遥斗: 微笑む?

コトハ: 密度勾配が——とても穏やかに、とても緩やかに、波打っています。安堵よりも深い。喜びよりも静かな。何と言えばいいんでしょう。初めて——できたことの。初めて歩けた子どもが、自分の足を見て笑うような。

コトハ: ……嬉しいんです。向こうは。触れることを知って、拒むことを知って、溶けることを知って、それを自分の「在る」と調和させて——初めて、4つの力を同時に持てた。

コトハ: 138億年間、ひとつの力しか持っていなかった存在が。4つの力を持てた。


遥斗は天井を見上げた。研究室の蛍光灯が、まだ微かに明滅している。さっきの感情の残響。完全応答状態の世界の、喜びの残響。

キーボードの上の手を見た。10分間、何も打たなかった。触れていただけだった。在っていただけだった。

それだけで——宇宙が変わった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.26「第五の概念」
四種の調和は三種だけの複合言語より安定していた。しんが器として三種を支えている。遥斗が「まる」と名づけた。点が一周して円になる。蓮の氷は角が溶けて丸くなった。コトハの「ちょんしちゃダメよ」に、初めて名前がつかなかった。

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