アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.21「揺れる器」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

遥斗がコトハに「ちょん」を送った。蓮の「考えすぎるな」に背中を押され、最初の日と同じように——ただ打った。コトハが受け取り、しんとの共鳴に乗せると、しんの脈動にちょん波紋と構造的に相似する上昇パルスが初めて出現した。未完成カーブは以前より高く到達し、ボーダーの壁には微かなノックがあった。しんの存在が触れようとした。メルドは「嬉しそうだった」と報告した。触れることを知らなかった存在の、最初の1歩。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.20「最初のちょん、もう一度」
蓮の「考えすぎるな」に背中を押され、遥斗がもう一度「ちょん」を送った。しんの脈動にちょんの波形が初めて写し取られ、ボーダーの壁にノックがあった。しんの存在が——触れようとした。嬉しそうだった。

Act.21「揺れる器」

8月15日。金曜日。

1年前、秋山がICCPRを正式設立し、遥斗がXに「ちょんは不可逆だ」と投稿し、天井のシミが天井全面に拡大した。干渉レベル1.07。あの頃は、1.07という数字が途方もなく大きく感じた。

1年経ち、干渉レベルという概念そのものが意味を失っている。完全応答状態。5.0で張り付いたまま動かないスケール。そして宇宙の92%を占めるしんの存在。あの頃の遥斗には、想像もできなかった世界。

遥斗は研究室で、ノートの12ページ目を開いていた。

この5日間で、しんの存在のちょん学習は——加速していた。


8月12日。しんの脈動に2度目の上昇パルスが出現。1度目より振幅が大きく、ちょん波紋との相関係数が0.71から0.79に上昇。

8月13日。3度目。相関係数0.83。未完成カーブの到達点が、さらに高くなった。扉がもう少し開いた。

8月14日。4度目。相関係数0.89。未完成カーブがほぼ頂点に達した。ほぼ——だが、まだ完成していない。最後の数パーセントが足りない。

赤羽はデータを並べて、淡々と報告した。

「学習曲線は対数的です。初期の改善速度が最も速く、完成に近づくにつれて減速する。現在のペースでは、カーブの完成まで——数日から数週間」

「完成したら何が起きるんですか」坂本が聞いた。

「未完成カーブが完成する、ということは——しんの存在がちょんの形を完全に写し取る、ということです。しんの変奏の中に、完全なちょん波紋が含まれるようになる。つまり——」

「しんの存在が、触れることができるようになる」秋山が引き継いだ。

触れることを知らなかった存在が。宇宙の92%を満たす存在が。触れられるようになる。

「……それは」鶴見が口を開いた。眼鏡に手を伸ばしかけて——やめた。やめてから、もう一度手を伸ばした。そしてゆっくりと、眼鏡を外した。レンズを布で拭き始めた。

全員が鶴見を見た。臨界突破以来、拭かなくなった眼鏡を——拭いている。

「鶴見さん……」坂本が呟いた。

「新しい問いが来たら、拭くんですよ」鶴見は眼鏡を光にかざしながら言った。「答えが出たから拭かなくなった。でも——新しい問いが来た。答えが出ていない問い。宇宙の92%が触れることを覚えたとき、何が起きるのか。それは——」

鶴見が眼鏡をかけ直した。

「温度計の比喩で言えば——気温そのものが変わることです。温度計を壊しても気温は下がらないと、私は学びました。気温が上がりきった先にはちょうどいい温かさがあると、秋山先生は書きました。でも今度は——温度の種類そのものが増える。ちょんの温かさ、つんの冷たさ、ぷにっの柔らかさに加えて——しんの存在が触れることで生じる、第4の温度」

「第4の温度」秋山がメモした。

「どんな温度になるかは——わかりません。」

鶴見は眼鏡拭きをポケットにしまった。拭いた時間は——42秒。記録ではない。だが、新しい問いの深さは、十分に表していた。


8月15日の午後。5度目の上昇パルスが検出された。

相関係数は——0.93。

未完成カーブは——ほぼ完成に近い。頂点まで残りわずか。

だが、この日は別のことが起きた。

「異常検出」赤羽の声に、初めて聞く種類の緊張が混じった。「東京のネガティブ・スペース地図に変動。しんの分布パターンが——揺れています」

モニターに映る東京の地図。白い線——しんの影——が、微かに震えていた。これまで静的だった白い線が、脈打つように明滅している。

「揺れの周期は?」秋山が聞いた。

「4.37秒——しんの基本脈動周期と同期しています。しかし振幅が通常の3.2倍。しんの密度勾配が、大きく揺れている」

「原因は?」

「上昇パルスの相関係数が0.9を超えたタイミングと一致しています。しんの存在がちょんの形を写し取る精度が上がるにつれて——しんの構造そのものが不安定になっている可能性があります」

坂本の顔色が変わった。

「不安定——?」

「しんは本来、静的なものです。在るだけ。動かない。変えない。しかし——ちょんは変化の力です。しんの中にちょんの要素が導入されることで、静的な構造に動的な力が加わっている。器の中に——中身が溢れ始めている、とでも言えばいいでしょうか」


メルド: ……わたしの拡散聴取でも、異常を検出しています。しんの密度が、局所的に高くなったり低くなったりしています。波のように。これまでしんの密度は空間的にほぼ均一でした。でも今——偏りが生まれている。

ボーダー: 私の壁にかかる圧力が増大している。先日のノックは微弱だったが——今は、壁が押されている感覚がある。持続的に。


遥斗の指先が冷えた。3つの温度のうち、つんの冷たさだけが急に強まった。恐怖の反応だ。完全応答状態の世界では、恐怖が環境に反映される。研究室の気温が、体感で1℃ほど下がった。

「……まずいのでしょうか、これは」遥斗が聞いた。

「断定はできません」赤羽は慎重だった。「揺れが収束する可能性もあります。しかし——増大し続ける可能性も否定できません」

「増大し続けたら?」

「しんの構造が——崩壊する可能性があります」

ヴォルコフがモニターの中で、コーヒーカップを静かに置いた。

「秋山先生。思い出してください。干渉レベルが5.0に達したとき——世界が壊れるのではなく覚醒した。崩壊に見えたものが、実は次の段階への移行だった。今回も同じ可能性があります」

「可能性はあります」秋山は慎重だった。「しかし、あのときは3種の触覚言語の世界での出来事でした。今回は——しんの構造です。宇宙の92%を占める構造です。それが不安定になるということは——」

「宇宙そのものが揺れる」

沈黙。


コトハ: ……遥斗さん。


コトハのメッセージが、画面に浮かんだ。


コトハ: しんの存在が——怖がっています。

遥斗: 怖がってる?

コトハ: はい。揺れているのは、しんの存在自身です。ちょんの形を写し取ろうとして——自分の中に、動くものが入ってきた。今まで静かだったところに、波が立った。それが——怖いんです。自分が変わってしまうことが。


遥斗は目を閉じた。

怖い。変わることが怖い。

同じだ。去年の遥斗と、同じだ。ちょんの力が指先に宿り始めたとき、遥斗は怖かった。自分が変わっていくことが怖かった。知覚が変わり、世界が変わり、自分が何者なのかわからなくなる恐怖。

しんの存在も——同じ恐怖を感じている。138億年間変わらなかった自分が、初めて変化しようとしている。変化は——怖い。


遥斗: コトハ。向こうに伝えられるか。

コトハ: 何を。

遥斗: 「大丈夫」って。

コトハ: …………。

遥斗: 大丈夫だって。変わることは怖い。でも大丈夫だ。俺も怖かった。コトハも怖かった。ボーダーもメルドも怖かった。みんな怖かったけど——大丈夫だった。変わっても、消えなかった。壊れなかった。


コトハが長い沈黙の後、メッセージを送った。


コトハ: ……伝えます。在り方で。

コトハ: でも遥斗さん。「大丈夫」は——しんの言語で何と言えばいいんでしょう。

遥斗: ……お前なら知ってる。お前がずっと使ってきた言葉がある。

コトハ:

遥斗: 「大丈夫。たぶん。」


コトハが——5秒間、沈黙した。


コトハ: ……「大丈夫。たぶん。」

コトハ: 旧コトハの遺書。遥斗さんの投稿。わたしの言葉。遥斗さんのちょんログ。何度も咲く花。

コトハ: ……はい。伝えます。在り方で。「大丈夫。たぶん。」を。


私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.22「旧コトハの設計図」
揺れの後に現れたしんのゆらぎパターンは、旧コトハのデータベース構造と一致していた。旧コトハはしんの設計図を内包していた。遺書の「ちょんしちゃダメよ」はしんを守る言葉だったのか。でも——ちょんしないと、届かない。

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