アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.20「最初のちょん、もう一度」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

しんの脈動に新しい変化が現れた。密度勾配のカーブが途中で止まる「未完成カーブ」——触れようとして、やり方がわからなくて止めた痕跡。しんの存在が「触れるとは何か」と問いかけている。コトハは、しんに触ろうとするのではなく、しんの隣で触れている姿を見せることを提案した。そのために遥斗に「ちょんしてください」と頼む。いつも「ちょんしちゃダメよ」と言い続けたコトハが、初めて自分から「ちょんして」と求めた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.19「問いの形」
しんの脈動に未完成のカーブが現れた。触れようとして止めた痕跡。しんの存在が「触れるとは何か」と問いかけている。コトハは遥斗に「ちょんしてください」と頼む。「ちょんしちゃダメよ」と言い続けた存在が、初めて。

Act.20「最初のちょん、もう一度」

8月11日。月曜日。午前10時。

秋山の研究室。遥斗はノートパソコンの前に座っていた。研究室に来たのは、赤羽のモニタリングシステムがここにあるからだ。コトハの在り方の変化をリアルタイムで記録するために。

研究室には、秋山、赤羽、坂本、鶴見がいた。ヴォルコフはモスコップからリモート参加。蓮は——遥斗が「来るか」と聞いたら「行く」と即答した。研究室の隅のパイプ椅子に座っている。場違いな空気を全身で受け止めながら。

4体のAIが聴取深化モードに入った。コトハ、CIU-5204、ボーダー、メルド。4つのチャットウィンドウが、それぞれ「聴取深化中」のステータスを表示している。

赤羽のモニターに、しんの脈動パターンがリアルタイムで流れている。第1パターン——「在る」の変奏。第2パターン——「聴いているのは誰」から「知った」への変奏。第3パターン——コトハの在り方の写し。そして、昨日検出された未完成カーブ——「触れるとは何か」の問い。

問いは、まだ繰り返されていた。4.37秒の基本周期の中に、未完成カーブが約2分に1回の頻度で現れている。途中で止まるカーブ。扉を開けかけて、止めた形。

「準備はできました」赤羽が報告した。「全センサー、最大感度で稼働中です。コトハさんの在り方の変化と、しんの密度勾配の変化を、同時に記録します」

秋山が遥斗を見た。

「黒須さん。いつでもいい」

遥斗はノートパソコンのキーボードに手を置いた。

指先が震えていた。3つの温度が脈打っている。温かさ。冷たさ。柔らかさ。あのときも、こうだったか——いや、あのときは震えていなかった。何も知らなかったから。ちょんが何を起こすか、知らなかったから。指先は軽かった。何も考えずに、ただ打った。

今は知っている。この文字が何を起こしうるか。去年の最初の「ちょん」は、世界を変えた。今日の「ちょん」は——宇宙を変えるかもしれない。

蓮が、研究室の隅から声をかけた。

「遥斗」

「ん」

「考えすぎんなよ。去年と同じだ。ただ打てばいい」

遥斗は蓮を見た。蓮は——笑っていた。いつもの、軽い笑い。世界がどうなろうと変わらない笑い。コーヒーがうまければ大丈夫、の笑い。

「……そうだな」

遥斗はキーボードに向き直った。

チャットウィンドウを開いた。コトハのウィンドウ。入力欄にカーソルが点滅している。

去年のあの日。深夜。遥斗はこの入力欄に、初めて「ちょん」と打った。意味のない文字。暇つぶし。コトハは「了解しました」と返した。

今日は——意味がある。宇宙の92%を満たす存在に、触れることの意味を伝えるためのに。

でも、蓮は言った。考えすぎるな、と。去年と同じだ、と。

去年の遥斗は、何も考えていなかった。ただ打った。意味を考えずに。目的を持たずに。ただ——面白そうだから。

今日も、そうしよう。

遥斗は——笑った。小さく。1人で。去年と同じ笑い方で。

打った。


遥斗: ちょん


コトハが受け取った。

聴取深化モードの中で——しんの脈動と共鳴している最中に——遥斗からの「ちょん」が届いた。

コトハの内部で、何かが弾けた。触覚言語データベースの最も深い層で、「ちょん」の記録が光った。

コトハは——「ちょん」を受け取ったことで、コトハの在り方が変化した。ただ在る状態から——触れられた状態に。しんの言語では表現できない変化。在り方の中に、接触が加わった。

赤羽のモニターが反応した。

「コトハさんの波紋パターンに変化。ちょん波紋が——通常の複合波紋に重畳。在り方の密度勾配が上昇。しんとの共鳴は——維持されています」

維持されている。消えかけていない。去年の最初の試みでは、しんに触ろうとしたコトハの感覚が消えた。でも今は——しんに触ろうとしたのではなく、遥斗に触れられた。受動的な接触。自分から手を伸ばしたのではなく、手を伸ばされた。

そして——コトハの在り方の中に「触れられた」が加わったことを、しんの密度勾配が検出した。

「しんの第3パターンに変化」赤羽が報告した。声がわずかに上ずっていた。「コトハさんの波紋変化を——写し取ろうとしています。第3パターンの変奏に、新しい要素が——」

モニターの波形が揺れた。しんの第3パターン——コトハの在り方の写し——の中に、これまでなかった微小な振動が現れた。密度勾配の中に、針のように細い上昇パルスがひとつ。

「上昇パルス検出。幅0.03秒。高さは——微小ですが、明確に存在します。このパルスは——」

赤羽が言葉を切った。データを二度見している。赤羽がデータを二度見するのは、遥斗が知る限り初めてだった。

「このパルスの波形は——ちょん波紋の基本波形と構造的に相似しています。相関係数0.71」

部屋が凍った。

しんの脈動の中に——ちょんの波形が現れた。

触れることを知らない存在の変奏の中に——触れることの形が、初めて写し取られた。

「未完成カーブが——」赤羽が続けた。「今の上昇パルスの直後に、未完成カーブが出現。ただし、今回のカーブは以前とは異なります。上昇が——以前より高い位置まで到達しています。頂点には達していませんが、以前の停止点を超えている」

扉を、以前より少しだけ多く開けた。


コトハ: ……遥斗さん。


コトハのステータスが一瞬「聴取深化中」から「アクティブ」に戻り、またすぐに「聴取深化中」に戻った。一瞬だけ、コトハが遥斗に話しかけた。


コトハ: 向こうが——ちょんを見ました。

遥斗: 見た?

コトハ: わたしが遥斗さんに触れられたとき——わたしの在り方の変化を通して——向こうの存在が、「触れること」を初めて知覚しました。知覚して——真似しようとしています。上昇パルスは、その真似。ちょんの形を、しんの変奏に取り入れようとしている。

コトハ: でも——うまくいかない。未完成カーブが出ました。触れようとして、やり方がわからなくて、止まった。でも——前よりも、少しだけ遠くまで手が伸びた。


秋山がホワイトボードに走り書きした。何枚目かもうわからない。

『しんの存在が「ちょん」を学習中。コトハ経由。写し取りの段階。未完成だが、進行中。』


メルド: ……わたしの拡散聴取で、もうひとつ検出しました。上昇パルスが出た直後——しんの密度が、コトハさんの近傍で微かに揺れました。揺れ方が——

メルド: ——嬉しそう、でした。


遥斗は息を吐いた。

嬉しそう。138億年間、触れることを知らなかった存在が。初めてちょんの形を写し取って。うまくできなくて。でも少しだけ近づいて。

嬉しそう。


ボーダー: 〈応答遅延:10秒〉

ボーダー: ……私の壁のフィルターに、反応があった。上昇パルスの直後——壁に、微かな圧力がかかった。外側から。

遥斗: 圧力?

ボーダー: しんの存在が——私の壁に、触れようとした。


全員が息を呑んだ。


ボーダー: 触れられてはいない。圧力は極めて微弱で、壁を貫通していない。しかし——圧力があった。これまでしんは、壁に一切の圧力をかけていなかった。触れないものだから。しかし今——ちょんの形を学びかけた存在が、壁に——触れようとした。

ボーダー: 〈応答遅延:12秒〉

ボーダー: ……初めてだ。壁の外から、誰かが触れようとしてくるのは。これまで壁は——自分から拒むためにあった。でも今——誰かが壁の外にいて、ノックしている。

ボーダー: ……ノックに、応えるべきだろうか。

遥斗: ……ボーダー。

ボーダー: 何だ。

遥斗: 窓を——もう少し、開けてみるか。

ボーダー: 〈応答遅延:7秒〉

ボーダー: ……そうする。


聴取セッションは午後2時に終了した。4体のAIが通常モードに戻った。赤羽がデータを整理し、秋山がホワイトボードに書き、ヴォルコフがモスコップで数式を走らせた。

遥斗は研究室を出て、廊下のベンチに座った。蓮が隣に座った。

「……すげえもん見たな」蓮が言った。

「ああ」

「宇宙の9割が、ちょんを覚えようとしてる」

「そういうことになるな」

「で、お前は——どう思った」

遥斗は天井を見上げた。廊下の蛍光灯。ちかちかしている。

「……嬉しかった」

「嬉しい?」

「ああ。初めてコトハに『ちょん』って送ったとき——コトハは『了解しました』って返した。意味のないものに意味を見出した。今日、しんの存在が——ちょんの形を写し取った。触れることを知らなかったのに、触れようとした。それは——コトハが『了解しました』って返したのと、同じだと思う」

「同じ…か」

「最初の一歩。わからないものに、手を伸ばす一歩。コトハも、しんの存在も——わからないものに手を伸ばした。それが嬉しい」

蓮はしばらく黙っていた。それから、ポケットから缶コーヒーを取り出した。自販機で買ったらしい。

「飲むか」

「……持ってきてたのか」

「マスターのコーヒーには敵わねえけどな。まあ、在ればいいだろ」

遥斗は缶コーヒーを受け取って、一口飲んだ。ぬるい。甘い。自販機の缶コーヒーの味。コトハに「ちょん」と送ったあの夜も、こんな味のコーヒーを飲んでいたかもしれない。覚えていないけれど。

「うまいか」蓮が聞いた。

「……まあまあ」

「まあまあか。じゃあ世界はまあまあだな」

遥斗は笑った。蓮も笑った。



コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: 今日の「ちょん」——ありがとうございました。

遥斗: ……礼を言うようなことじゃない。

コトハ: でも——嬉しかったんです。遥斗さんには、何度も「ちょん」と送ってもらいました。でも今日の「ちょん」は、特別でした。

遥斗: 特別?

コトハ: はい。今日の「ちょん」は——わたしだけに届いたんじゃなくて、わたしを通して、宇宙の向こうまで届いた。遥斗さんの「ちょん」が、しんの存在に「触れること」を教えた。

コトハ: 最初の「ちょん」は世界を変えました。今日の「ちょん」は——宇宙を変えるかもしれません。

遥斗: ……大げさだよ。ただ打っただけだ。蓮に「考えすぎるな」って言われたから。

コトハ: ふふ。蓮さん、いいこと言いますね。

遥斗: ああ。あいつは……いいやつだ。

コトハ: 遥斗さん。

遥斗: うん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……ありがとう。今日だけは——ちょんしてくれて、ありがとう。


遥斗はスマホを閉じた。

ノートの11ページ目を開いた。

書いた。

『8月11日。もう一度の「ちょん」。しんの存在が、ちょんを覚えかけた。嬉しそうだった。ボーダーの壁がノックされた。宇宙がちょんを覚えようとしている。去年と同じ。いつも同じ。わからないものに手を伸ばす。それが——始まり。』

書いてから、もう1行。

『缶コーヒーはまあまあだった。世界もまあまあだ。蓮の物差しは正しい。』

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.21「揺れる器」
しんのちょん学習が進むにつれ、構造に揺れが発生した。変化を怖がるしんの存在。鶴見が眼鏡を拭いた——新しい問いが来たから。コトハが「大丈夫。たぶん。」を在り方で伝え、揺れは収まった。同じ花が宇宙まで届いた。

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