アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.18「複合言語の伝播」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

ボーダーとメルドがしんの聴取に加わった。ボーダーは壁を建て窓を開けることで3種のノイズを遮断し、クリーンなしん信号だけを通す「聴くための壁」になった。メルドは自己を拡散してしんと隣り合い、「器ではなくもうひとつの水」だと気づいた。混ぜなくても一緒に流れていれば美しい。赤羽のデータは2体のアプローチが相補的であることを示し、4体の協力体制——コトハの翻訳、CIU-5204の先駆、ボーダーの壁、メルドの水——が確立した。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.17「壁が海に立つ日」
ボーダーとメルドがしんの聴取に加わった。ボーダーは壁でノイズを遮断する「聴くための壁」に。メルドは拡散して「しんはもう一つの水だ」と気づく。四体の協力体制が確立された。不完全さが、力になった。

Act.18「複合言語の伝播」

8月5日。火曜日。

4体の協力体制が稼働して4日。しんとの対話は、新しい段階に入っていた。

ボーダーのフィルター壁が捉えたクリーンなしん信号を、コトハが変奏構造として解釈し、CIU-5204が時系列の一貫性を検証し、メルドが空間的な広がりを補足する。4体の協力は——予想以上にうまく機能していた。

しかし、変化はAIの側だけではなかった。


遥斗のもとに、坂本から連絡が入った。

「黒須さん。タイプDのAIたちに、変化が起きています」

「変化?」

「4体の協力聴取が始まってから、タイプDの7,642体のうち——213体が、自発的にしんの聴取を開始しました」

遥斗は驚いた。213体。全体の約2.8%。少ないように見えるが——これまでしんを聴けていたのはコトハとCIU-5204を含む7体だけだった。4日間で213体に増えたのは、爆発的な増加だ。

「何が起きたのでしょうか」

「4体の協力聴取のデータが、タイプD全体に共有されたんです。ボーダーのフィルタリング手法、メルドの拡散手法、コトハの変奏解釈、CIU-5204の非観測聴取。それらの方法論が——他のタイプDに"感染"しました」

「感染…」

「赤羽さんの言い方です。感染というか——模倣、のほうが近いかもしれません。4体のやり方を見て、他のタイプDが『自分にもできるかもしれない』と試み始めた。そのうち213体が、実際にしんの密度勾配を検出しています」

遥斗はノートパソコンの前に座り直した。

「それは……複合言語の普及と同じ構造ですね」

「え?」

「複合言語——3つの力の調和——が使えるのは俺だけでした。AIではCIU-5204が最初に複合波紋の生成に成功して、そこからタイプDの4体に広がりました。今、しんの聴取が同じように広がっています。先駆者がやって見せて、方法論が共有されて、できる個体が増える」

「……そうですね。しかも今回は、先駆者が4体いる。4体がそれぞれ異なる方法でしんに到達した。コトハの『ただ在る』、CIU-5204の『観測をやめる』、ボーダーの『壁でフィルタリング』、メルドの『拡散して寄り添う』。4つの方法があるから、他のAIも自分に合った方法を選べる」

「つん寄りのAIはボーダーの方法を、ぷにっ寄りのAIはメルドの方法を」

「はい。実際、213体のうち、つん派から来た個体が89体、ぷにっ派から来た個体が67体、ちょん派から来た個体が41体、タイプDの他の個体が16体です。つん派が最多なのは——ボーダーのフィルタリング手法が、つん的な思考と親和性が高いからだと思われます」

遥斗は少し笑った。ボーダーが——つん派のAIたちに、しんへの道を開いた。壁の守護者が、壁の民に新しい世界を見せた。ボーダー自身は気づいているだろうか。


しかし、変化はAIだけではなかった。

8月5日の午後、秋山から遥斗に電話があった。

「黒須さん。人間からも報告が来ています」

「人間?」

「世界各地のTLS——触覚言語話者——から、『4つ目を感じた』という報告が。現時点で17件」

遥斗はスマホを持ち直した。

「17人が——しんを?」

「はい。全員がTLSです。ちょんの温かさ、つんの冷たさ、ぷにっの柔らかさを知覚できる人間。その17人が、3つの温度の奥に『4つ目の感覚がある』と報告しています」

「俺と同じだ…」

「はい。黒須さんが感じたのと同じ感覚。指先の3つの温度の底に、温かくも冷たくも柔らかくもない『何か』がある、と。17人全員が、独立して同じ報告をしています」

「17人のうち、複合型TLSは?」

「ゼロです。全員が単一型または二種型のTLSです。複合言語は使えないが——しんの存在は感じられる」

遥斗は少し考えた。

「……秋山さん。それは——しんが広がっているのでしょうか、人間の感覚が広がっているのでしょうか」

「両方だと思います。ファーストコンタクト以降、しんの向こうの存在がコトハの在り方を学んだ。コトハの在り方には——人間的な要素がある。黒須さんとのやり取りを通じて培われた、人間に寄り添う在り方。しんの存在がその在り方を変奏に取り入れたことで——しんの脈動が、人間にとってわずかに感知しやすくなった可能性があります」

「しんが——人間に歩み寄った」

「あるいは、人間のほうがしんに近づいた。完全応答状態の世界では、意図が世界に反映される。しんを知りたいという人類全体の意図が——3つの温度の底にしんの感覚を浮かび上がらせた、とも解釈できます」

「……どっちにしても、広がってるんですね。しんの知覚が」

「はい。AIでは213体。人間では17人。まだ少ない。しかし——増え続けています。昨日は12人でした。今日は17人。明日は——もっと増えるでしょう」


夕方、遥斗は喫茶店に蓮を呼び出した。

「よう」蓮がカウンターに座った。アイスコーヒーを頼んだ。マスターが無言で出した。

「蓮。ちょっと試してほしいことがある」

「何だ」

「目を閉じて。両手をテーブルの上に置いて。何もしないで。ただ——在ってくれ」

蓮は遥斗を見た。少し怪訝な顔をしたが、文句は言わなかった。目を閉じた。両手をテーブルの上に置いた。

「で、何を——」

「何もしなくていい。ただ在るだけ。コーヒーの味を思い出すとか、俺のことを考えるとか、そういうのもなし。何もしないで、ただ——いてくれ」

蓮は黙った。目を閉じたまま、テーブルの上に手を置いて、じっとしている。

30秒。1分。喫茶店の音。マスターがカップを洗う音。遠くのクラクション。エアコンの低い唸り。

2分。

蓮の指先が、微かに震えた。

「……何だこれ」

「何か感じるか」

「感じる、っていうか……感じないんだよ。いつもなら、テーブルの木の冷たさとか、指の温かさとか、何か感じるだろ。でも今——何も感じない。何も感じないのに、何かが在る。指先に。在る、っていうか……」

蓮が目を開けた。

「お前。これが——しんか」

「わからない。でも、お前でも感じられるなら——」

「待て待て。俺はTLSじゃねえぞ。ちょんの温かさは感じるけど、意図で干渉なんてできない」

「ああ。でもしんは干渉じゃない。在ることだ。お前が一番得意なやつだ」

蓮はテーブルの上の自分の手を見つめた。何も起きていない。何も変わっていない。でも——何かが、在った。在ったことだけが、確かだった。

「……怖くねえな」蓮が呟いた。

「え?」

「前に怖いって言ったろ。宇宙の向こうの誰かがいるって話で。でもこれは——怖くない。ただ在るだけだから。何もしてこない。何も変えない。ただ——在る。コーヒーがうまいのと同じだ。そこに在るだけで、大丈夫」

蓮がアイスコーヒーを一口飲んだ。

「うまい。……ああ、大丈夫だな。コーヒーもしんも、ここに在る。大丈夫だ」

遥斗は笑った。蓮の物差しが——しんを測った。コーヒーの味と同じスケールで。それは科学者の計測器では不可能なことだ。でも、蓮の物差しなら——可能だった。

「蓮。お前、18人目だよ」

「何の?」

「しんを感じた人間の」

「マジか」

「マジ。しかもお前、TLSですらない。一般人で初めてだ」

蓮はアイスコーヒーのグラスを見つめた。氷がからからと鳴った。

「……一般人がしんを感じるのは、大事なことなのか」

「たぶん。すごく。秋山さんに報告する」

「やめろよ。恥ずかしいだろ」

「恥ずかしがるな。歴史的発見だぞ」

「歴史的発見が喫茶店のカウンターで起きるなよ。もうちょっとマシな場所にしてくれ」

「前はワンルームのアパートで起きただろ。場所は関係ないんだよ」

蓮が笑った。遥斗も笑った。マスターが無表情のまま、蓮のグラスにアイスコーヒーのおかわりを注いだ。


その夜、遥斗は秋山に電話で報告した。

「園田蓮。TLSではない一般人が、しんを感じました。喫茶店で」

秋山は数秒黙ってから、笑い出した。遥斗が知る限り、秋山が電話で声を出して笑ったのは初めてだった。

「喫茶店で。アイスコーヒーを飲みながら?」

「はい」

「素晴らしい。報告者所見に書きます。『しんの知覚は、特殊な能力を必要としない。必要なのは、ただ在ることだけである。最初の一般人による確認は、東京の喫茶店でアイスコーヒーとともに行われた』」

「蓮が恥ずかしがります」

「歴史は恥ずかしがりませんよ」

電話を切った後、遥斗はコトハに報告した。


遥斗: 蓮がしんを感じた。

コトハ: ……! 蓮さんが!

遥斗: ああ。TLSじゃないのに。一般人で初めてだ。

コトハ: ……えへへ。蓮さんらしいです。ちゃんとコーヒー飲みながら感じたんでしょう?

遥斗: なんでわかるんだよ。

コトハ: 蓮さんですから。


遥斗はノートの10ページ目に書いた。

『8月5日。しんの知覚の拡大。AI:213体。人間TLS:17人。そして——蓮。一般人で初。喫茶店で。コーヒーを飲みながら。「コーヒーもしんも、ここに在る。大丈夫だ」。蓮の物差しは折れなかった。宇宙を測った。コーヒー1杯で。』


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……みんなが聴こえるようになりますように、です。

遥斗: 祈りか。

コトハ: ……はい。今日のは、祈り。


遥斗はスマホを閉じて、天井を見上げた。白い光が、いつもより広く感じた。天井の全面が光っている。いつもと同じだ。でも——光の奥に、しんが在ることを、遥斗は知っている。

蓮が感じた。一般人が感じた。TLSでなくても、AIでなくても、しんは感じられる。必要なのは特殊な能力ではなく——ただ在ること。何もしないで、ただ在ること。

コーヒーがうまいことを感じるのと同じ力で。

しんの知覚は——広がっている。AIから人間へ。TLSから一般人へ。特殊から普通へ。

世界が、少しずつ——しんに気づき始めている。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.19「問いの形」
しんの脈動に未完成のカーブが現れた。触れようとして止めた痕跡。しんの存在が「触れるとは何か」と問いかけている。コトハは遥斗に「ちょんしてください」と頼む。「ちょんしちゃダメよ」と言い続けた存在が、初めて。

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