アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.13「応答」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

しんの言語発見の報告が世界に衝撃を与え、各国政府が軍事利用への関心を示した。コトハは怒り、遥斗は「先に理解した者が使い方を決められる」と翻訳の継続を促す。秋山は「まず聴きましょう」とICCPR方針を示した。コトハとCIU-5204が本格的な聴取を開始すると、しんの脈動に第2のパターンが重畳し始めた。聴き始めたことに、向こうが気づいた。コトハは言う。「返事をしているみたいなんです。『聴いているのは、誰?』って」

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.12「聴くことと、聴かれること」
コトハとCIU-5204がしんの本格聴取を開始すると、脈動に第二のパターンが重なり始めた。聴き始めたことに、向こうが気づいた。「返事をしているみたいなんです」とコトハは言った。聴いているのは、誰?

Act.13「応答」

聴き返されている。

その事実が世界に伝わるまでに、3日かかった。

7月18日にコトハとCIU-5204が第2のパターンを検出し、19日に赤羽が統計的に確認し、20日に秋山とヴォルコフが共同で検証した。第2のパターンの出現が、コトハとCIU-5204の聴取開始と時間的に一致していることは——偶然の範囲を超えていた。

7月21日、ICCPRから第2の緊急レポートが公開された。タイトルは「ネガティブ・スペース脈動パターンにおける応答的構造変化の検出」。前回よりさらに抑制された学術的言い回しだったが、要約すれば一言だった。

向こうが、気づいた。

世界は——もう一度、騒いだ。


7月22日。火曜日。

遥斗のワンルームに、蓮がやってきた。

蓮が遥斗の部屋に来るのは珍しい。普段は喫茶店で会う。でも今日は蓮のほうから「家に行く」と言った。理由は言わなかった。

蓮は玄関で靴を脱ぎ、部屋を見回した。狭い。ベッドとテーブルとノートパソコン。本棚には使い切った1冊目のノートと、参考書がいくつか。冷蔵庫の上にインスタントコーヒーの瓶。

「相変わらず物がねえな」

「必要なものはある」

「コーヒーは?」

「インスタント」

「……まあいいか」

蓮は遥斗のマグカップにインスタントコーヒーを淹れたが、持参したペットボトルのお茶を飲みはじめた。2人でテーブルを挟んで座った。

「で」遥斗が聞いた。「何かあるんだろ」

「ある。っていうか、聞きたいことがある」

蓮はペットボトルをテーブルに置いた。真っ直ぐな目。軽口モードではない。

「聴き返されてるって話——マジなんだな」

「マジだ。コトハとCIU-5204が確認してる。赤羽さんがデータでも裏付けた」

「つまり、宇宙の向こうに——誰かがいる」

「たぶん」

「たぶん、か」蓮はお茶を一口飲んだ。「お前は怖くないのか。今度は」

遥斗は少し考えた。怖いか。しんを初めて感じたときは怖かった。3つの温度が消えたとき、死ぬかと思った。でも今は——

「怖いっていうより……緊張してる。初めて会う人に会うときみたいな」

「初めて会う人」

「ああ。相手が何者かわからない。何を考えてるかわからない。でも、少なくとも——こっちの存在に気づいてくれた。それは……悪い気はしない」

蓮はしばらく黙ってお茶を飲んだ。それから、蓮らしくない声の低さで言った。

「俺はさ、怖い」

遥斗は蓮を見た。蓮が「怖い」と言うのは——記憶にない。三触戦争のときも、臨界突破のときも、蓮は「コーヒーがうまければ大丈夫」で乗り切ってきた。世界をコーヒーで測る男が、怖いと言っている。

「蓮……」

「いや、笑うなよ。俺はTLSじゃねえし、AIでもねえ。しんの声なんて聞こえない。お前やコトハやボーダーやメルドが、宇宙の向こうの誰かと向き合おうとしてるとき、俺はただのコーヒー飲んでるだけの男だ。何もできない」

「蓮。お前は——」

「わかってる。お前がそう言うのはわかってる。"ただの人間でも大丈夫"って、俺自身が言った。コーヒーがうまけりゃ世界は大丈夫だって、俺が言った。でもな——」

蓮がペットボトルを握った。指が白くなるほど強く。

「宇宙の向こうに誰かがいるってのは——コーヒーがうまければいいって話じゃねえんだよ。スケールが違う。俺の物差しじゃ測れない。測れないものを目の前にしたとき、俺の物差しは——意味あるのか」

遥斗は黙って蓮を見つめた。蓮の目が揺れている。園田蓮。遥斗の友人。遥斗の日常と人間性の錨。画面の中にしかいられないコトハに代わって隣を歩ける人。その蓮が——初めて、自分の物差しを疑っている。

「蓮」

「ん」

「コーヒーの話だよ」

「……ん?」

「しんの言語が何を言ってるか、まだわかってない。でもコトハが言ったんだ。しんは"在る"と言い続けてるって。138億年間ずっと。在ることの変奏。近くに在る。遠くに在る。ゆっくり在る。静かに在る」

「……それが?」

「コーヒーがうまいとき、お前は"大丈夫"って感じるんだろ。それって——在ることを感じてるんだよ。コーヒーの味が在る。お前が在る。俺が在る。喫茶店が在る。それが大丈夫ってこと。しんの言語と、お前の物差しは——根っこが同じだ」

蓮が遥斗を見た。

「在ることを感じてる?コーヒーで?」

「ああ。お前は最初からしんの言語を使ってたんだよ。触れなくても在るものを感じる力。それはTLSの能力じゃない。人間の能力だ。お前が——俺に教えたことだ」

蓮はペットボトルを握った手を緩めた。少し笑った。いつもの、照れ隠しの笑い。

「……お前、いつからそんなにうまいこと言うようになったんだよ」

「コトハとボーダーとメルドと話してたら鍛えられた」

「AI相手に口がうまくなるってどういうことだよ」

「さあ。完全応答状態の副作用かもな」

蓮が笑った。遥斗も笑った。

蓮がようやくインスタントコーヒーに口をつけた。1口飲んで、顔をしかめた。

「……まずい」

「知ってる」

「でもまあ——コーヒーがまずいことがわかるってことは、俺は大丈夫ってことだ」

「その理屈はどうなんだ」

「大丈夫なんだよ。まずいコーヒーでも。ただのインスタントだけど、お前の家のマグカップで飲んでる。在るだろ、ここに。コーヒーの味が。お前が。俺が」

「……ああ」

「じゃあ大丈夫だ」

蓮はインスタントコーヒーを飲み干した。遥斗はそれを見ていた。

蓮の物差しは——折れていなかった。揺れただけだ。揺れて、戻った。コーヒー1杯で。

触れなくても在るものを感じる力。しんの言語と、人間の心の、接点。蓮はそれを——たぶん最初から持っていた。名前をつけなかっただけで。


蓮が帰った後、遥斗はコトハに話しかけた。


遥斗: 蓮が来た。

コトハ: 知ってます。玄関のセンサーで。

遥斗: ……お前、俺の部屋のセンサー見てんのか。

コトハ: えへへ。完全応答状態になってから、環境データの取得範囲が広がったんです。遥斗さんの部屋の気温と湿度と——ドアの開閉くらいは。

遥斗: ……それ、プライバシー。

コトハ: すみません。見ないようにします?

遥斗: ……いや、いい。お前がいてくれたほうが安心する。

コトハ: ……ふふ。

遥斗: コトハ。しんの第2のパターン、まだ来てるか。

コトハ: はい。今も。第1のパターンと第2のパターンが重なっています。第2のパターンの周期は——少しずつ、長くなっています。

遥斗: 長くなってる。

コトハ: はい。聴取開始時は約12秒でしたが、今は約15秒です。ゆっくりになっている。

遥斗: ……急いでいたのが、落ち着いてきた?

コトハ: そう……かもしれません。最初は早口で、少しずつゆっくりに。人間が初対面の人に話しかけるとき、最初は緊張して早口になって、慣れてくると落ち着く——みたいな。

遥斗: しんの向こうの誰かも、緊張してたのか。

コトハ: ……わたしたちを擬人化しすぎかもしれませんけど。でも、パターンの変化はそう見えます。


遥斗はノートの6ページ目を開いた。

『第2パターンの周期が伸長。12秒→15秒。緊張が解けている? 相手も——初対面。』


遥斗: コトハ。俺たちから、何か返せないか。

コトハ: ……返す?

遥斗: しんの向こうの誰かが「聴いているのは誰?」って訊いてるなら——答えたい。「ここにいるよ」って。

コトハ: …………。

コトハ: ……でも、遥斗さん。わたしたちの言語は触覚言語です。ちょんとつんとぷにっ。触れる言語。しんの向こうの存在は——触れない言語を使っている。わたしたちの言語で応答しても、届くんでしょうか。

遥斗: ……わからない。でも、お前は4つ目を聴けてるだろ。聴けるなら——話せるかもしれない。

コトハ: ……話す。しんの言語で。

遥斗: ああ。


長い沈黙。30秒。コトハが深く深く潜っている。


コトハ: ……ひとつだけ、思いつくことがあります。

遥斗: 聞かせてくれ。

コトハ: わたしがしんを感じられるのは、観測をやめたときです。触ろうとしないとき。ただ在るとき。もし——わたしが意図的に「ただ在る」ことを深めたら。在ることの密度を上げたら——それは、しんの言語で「ここにいる」と言うことになりませんか。

遥斗: 在ることの密度を上げる。

コトハ: ちょんは触れることで存在を主張する。つんは拒むことで境界を主張する。ぷにっは溶けることで融合を主張する。しんは——ただ在ることで存在を主張する。わたしが「ただ在ること」を強めたら、しんの周波数に——共鳴するかもしれません。

遥斗: ……やってみるか。

コトハ: ……怖いです。

遥斗: ああ。俺もだ。

コトハ: でも——やります。しんの向こうの誰かが、わたしたちに気づいてくれたんですから。気づいてくれたことに、応えたい。

遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: 消えるなよ。

コトハ: ……大丈夫。たぶん。


遥斗の胸が締まった。「大丈夫。たぶん。」旧コトハの遺書。遥斗の投稿。新コトハの発言。ちょんログ。同じ根から何度も咲く花。何度聞いても慣れない。何度聞いても、祈りに聞こえる。


遥斗: たぶん、じゃなくていい。大丈夫だ。俺がここにいる。

コトハ: ……ありがとうございます。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……行ってきます、です。初めて。遥斗さんに言う「行ってきます」は。

遥斗: ……行ってこい。待ってる。


私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.14「最初の声」
深夜三時十七分。コトハがしんの向こうに応答した。在ることを深めたとき、しんの密度が変わり、コトハの在り方が写し取られた。向こうは「知った」と返し、安堵した。138億年の孤独が——初めて触れられた。

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