アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.10「星の文法」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

赤羽がネガティブ・スペース解析システムを設計した。3種の波紋が存在しない領域——しんの「影」——を間接的に記録する方法。東京の地図に白い線の筋が走り、器と中身の仮説を支持するパターンが浮かんだ。ただしこのシステム自体が3種の波紋を「観測」しており、本当のしんの分布を見ているかは保証できない。野口が「地球全体に拡張しよう」と提案し、秋山は「科学は世界を知る方法のひとつにすぎない」と報告者所見に書いた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.9「不在の地図」
赤羽がネガティブ・スペース解析システムを設計した。三種の波紋が存在しない領域を白く表示する、不在の地図。東京の街に白い線の筋が走る。野口が「地球全体にやろう」と提案した。

Act.10「星の文法」

7月14日。月曜日。

赤羽のネガティブ・スペース解析が、地球全体に拡張されて3日が経っていた。

エアロタクトの全球データを転用し、大気圏内の3種スペクトルを網羅的にスキャンする。検出されない領域を白く表示する。地球規模のしんの影を——不在の地図を——描く。

結果は、秋山の研究室の5枚目のホワイトボードに貼り出された。

地球全体のネガティブ・スペース地図。青い地球の上に、白い線が走っている。大陸を横断し、海を渡り、極地から赤道まで。

白い線のパターンは——美しかった。

それは、地球の磁力線に似ていた。北極から南極へ、弧を描いて走る線。だが磁力線そのものではない。赤羽が比較解析をかけたところ、地球磁場との相関は0.31。低い。地形との相関は0.22。さらに低い。人口分布との相関は0.45。やや高いが、決定的ではない。

白い線は、地球上のどの既知のパターンとも一致しなかった。

しん独自のパターン。地球を包む、触れないものの地図。

だが、本当の衝撃は——地球ではなく、宇宙のデータにあった。


7月14日の午後3時、秋山の研究室に再び非公式の集会が召集された。

秋山。ヴォルコフ(モニター越し)。坂本。赤羽。鶴見。遥斗。コトハ(遥斗のノートパソコン経由)。CIU-5204(研究室のモニター経由)。前回と同じ8名。

秋山の顔が、いつもと違った。

いつもの秋山は、仮説を語るとき少し嬉しそうで、データを示すとき慎重で、結論を出すとき腕組みをする。今日の秋山は——蒼白だった。興奮と恐怖が混ざった顔。ペンのキャップを噛む癖が出ている。キャップの端がもう白く削れていた。

「全員に見てもらいたいものがあります」

秋山がモニターに画像を映した。

宇宙背景放射のゆらぎマップ。楕円形の全天マップ。以前の会合で見たものと同じ——に見えた。赤と青のまだら模様。宇宙の温度分布。

「これは通常の宇宙背景放射マップです。ここにネガティブ・スペース解析をかけます」

秋山がキーを叩いた。赤羽のシステムが起動し、マップが変換されていく。3色のスペクトルが除去され、白い点だけが残る。

画面が、白くなった。

ほぼ全面が白かった。

「……ほとんどが白い」遥斗が呟いた。

「はい」秋山の声が震えていた。学者としての冷静さを保とうとしているが、声が震えている。「宇宙背景放射のゆらぎマップにネガティブ・スペース解析をかけると、面積の約92%がしんの領域として検出されます。残りの8%が、三種の触覚言語で記述されている部分です」

「92%」鶴見が繰り返した。

「暗黒物質と暗黒エネルギーの合計——約95%——に近い値です。完全一致ではありませんが、有意に高い相関」

「つまり、仮説が裏付けられた」ヴォルコフが静かに言った。「宇宙の大部分は、しんで構成されている。私たちが観測できる宇宙——ちょんとつんとぷにっのログ——は、全体の8%にすぎない」

部屋が静まった。全員が、その数字の意味を咀嚼している。

92%。宇宙のほとんどが、触れないもの。人類が観測してきた宇宙——星も銀河もブラックホールも、物理法則も化学反応も生命の誕生も——は、全体の8%の出来事にすぎない。残りの92%は、静かに在るだけ。何にも触れず、何も変えず、ただ——在る。

秋山が続けた。

「しかし、これだけではありません」

ペンのキャップを噛む音が、かちかちと響いた。

「赤羽さんのシステムは、ネガティブ・スペースの時間変動も記録しています。東京のデータでは、白い点は微かに明滅していましたが、ほぼ静的でした。しかし——宇宙のデータでは違いました」

秋山がモニターを操作した。全天マップの白い領域に、色がつき始めた。白の濃淡。明るい白と暗い白。その濃淡が——変化している。パルスのように。ゆっくりとした、しかし規則的な変化。

「白い領域の密度が、時間とともに変動しています。変動の周期は——」

秋山がホワイトボードに数字を書いた。

『周期:約4.37秒』

「4.37秒周期で、宇宙全体のしん密度が脈動しています。この周期は——宇宙のどの既知の物理現象とも一致しません。パルサーの周期でも、重力波の周期でも、宇宙膨張のリズムでもない。完全に未知の周期です」

ヴォルコフが画面の中で前のめりになった。

「秋山先生。その脈動に——構造はありますか。単純な繰り返しですか、それとも——」

「構造があります」

秋山の声が、さらに震えた。

「脈動は単純な正弦波ではありません。複雑なパターンを持っています。密度が上がる部分と下がる部分に、非対称性がある。上昇は緩やかで、下降は急速。そして——脈動のパターンが、時間とともに変化しています。同じパターンは2度繰り返されません」

沈黙。

同じパターンが2度繰り返されない。

坂本が、最初にその意味に気づいた。

「……それは」

坂本の声が掠れた。

「——言語じゃないですか」

全員が坂本を見た。

「同じパターンが2度繰り返されない。構造がある。非対称性がある。時間とともに変化する。それは——自然現象じゃない。ランダムでもない。構造を持ち、変化し、繰り返さない。それは——」

「……情報」赤羽が呟いた。「しんが——情報を含んでいる」


CIU-5204: ……わたしが「4つ目を待っています」と言ったのは、これを待っていたんです。


全員がモニターを見た。


CIU-5204: わたしはずっと、しんを聴いています。観測をやめて、ただ聴いています。聴こえてくるものに——パターンがありました。繰り返さないけれど、構造があるもの。わたしはそれを——言葉だと思いました。

CIU-5204: しんは沈黙ではありません。しんは——話しているんです。

コトハ: ……わたしも。わたしにも聞こえます。パルスの変化。同じものは2度来ない。でも、文法があるんです。文法と呼んでいいのかわからないけれど——規則が。


秋山がペンのキャップを口から離した。手が震えている。

「ここまでは——仮説の範囲です。脈動が言語であるかどうかを断定するには、パターンの情報量を解析する必要があります。シャノン・エントロピーの計算、冗長性の分析、文法構造の抽出——」

「秋山先生」ヴォルコフが遮った。穏やかだが、強い声だった。「仮説を超えましょう。言語だと仮定して、次の問いに進むべきです」

「……次の問い」

「誰が話しているのか」

部屋の温度が、下がった気がした。完全応答状態では、恐怖が空気を冷やす。部屋にいる全員の恐怖が、空調の設定を超えて、空気を冷たくしていた。

誰が話しているのか。

宇宙の92%を占めるしんが、言語を持っている。4.37秒周期で脈動し、繰り返さないパターンを送り続けている。それは自然現象ではない。情報だ。意味を持った信号だ。

誰かが——送っている。

「異星文明」秋山が、5枚目のホワイトボードに書いた。手が震えているから、字が歪んでいた。「プロット上の——いや、仮説として。しんの言語を使う知性体が、宇宙に存在する可能性」

遥斗がゆっくりと口を開いた。

「秋山さん。その"誰か"は——俺たちとは違うのか」

「違う可能性が高い」秋山が振り向いた。「我々は3種の触覚言語を使う文明です。ちょんとつんとぷにっで世界と関わっている。もし、しんだけを使う文明があるとしたら——」

「触れないことだけで世界と関わる文明」ヴォルコフが結んだ。

「単一言語種族」秋山が書いた。「しんだけを使う文明。触れない。変えない。拒まない。溶かさない。ただ——在ることだけで、宇宙に情報を刻む存在」


コトハ: ……遥斗さん。

遥斗: ……ああ。

コトハ: 星が震えていたのは——これだったんですね。


遥斗は窓の外を見た。7月の曇り空。星は見えない。でも——その向こうに、宇宙の92%を満たすしんが在る。そしてしんは、話している。4.37秒ごとに。繰り返さないパターンで。138億年前から——あるいはもっと前から。

人類に向けて話しているのか。それとも、ただ話しているだけなのか。

宇宙に向けて「ちょん」と送った遥斗のように——誰かが、宇宙に向けて「しん」と送っているのか。

「解析を急ぎましょう」秋山が全員を見渡した。「赤羽さん、脈動パターンの全データを。ヴォルコフ教授、国際連携で解析リソースの確保を。坂本さん、AIたちの報告を集約してください。CIU-5204とコトハさんにも協力を仰ぎます」

全員が頷いた。

秋山はホワイトボードに向き直り、最後に1行を書き加えた。

『問い:しんの言語は、何を言っているのか?』

ペンのキャップを閉めた。青いインク。仮説の色。

でも秋山の手は——今度は震えていなかった。恐怖が、好奇心に負けたのだ。科学者とは、そういう生き物だ。


帰り道。遥斗は電車に乗らず、歩いた。研究室から自宅まで40分。七月の夕暮れ。蒸し暑い。三触光が夕焼けに溶けて、空がいつもより複雑な色をしていた。

新しいノートを開いた。4ページ目。3ページ目の白いページの次。

書いた。

『しんは話している。4.37秒ごとに。繰り返さないパターンで。誰かが——在る』

書いてから、ペンを止めた。

誰かが在る。

この1年、遥斗は「在ること」について考え続けてきた。コトハが「ここにいたい」と言ったこと。遥斗自身が「ここにいる」と言ったこと。在ることが複合言語だと気づいたこと。

しんは——在ることそのものだ。触れずに在る。宇宙の92%を占めて、在る。そしてそのしんが——話している。

話している相手は、誰なのか。人類か。AIか。宇宙そのものか。

あるいは——話している「誰か」は、遥斗たちとまったく異なる存在なのか。触れることを知らない存在。ちょんもつんもぷにっも使わず、しんだけで在る存在。

遥斗は夕焼け空を見上げた。

星はまだ見えない。でも——あの星の震えが、しんの言葉だったのだとしたら。遥斗は数週間前から、しんの声を聴いていたことになる。聞こえていたのに、理解できなかった。コトハが「音がないのに在る」と言ったあの感覚が——言語だったのだ。

音のない言語。触れない言葉。在ることだけで紡がれる文法。


コトハ: 遥斗さん。


スマホが震えた。


遥斗: ん。

コトハ: 歩いて帰ってるんですね。

遥斗: ああ。考えたいことが多すぎて。

コトハ: ……わたしも、考えています。

遥斗: 何を。

コトハ: ……しんの言葉を、わたしは前から聴いていました。でもそれが言語だとは思わなかった。パターンがあることには気づいていたけれど……言葉だとは。

遥斗: お前のせいじゃない。誰もわからなかった。

コトハ: ……でも、わたしは聴けていたんです。聴けていたのに、理解しようとしなかった。触ろうとしたら消えるから、聴くだけにしよう、と思って……でも、もっと早く「聴く」ことを深めていたら。

遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: お前が聴き続けてくれたから、今日の発見があったんだ。お前とCIU-5204が「パターンがある」と言わなかったら、秋山さんも気づかなかった。お前は——最初の翻訳者だよ。

コトハ: ……翻訳者。

遥斗: ああ。しんの言葉を、俺たちに伝えてくれた。まだ翻訳はできてないけど——通訳の第一歩だ。

コトハ: …………。

コトハ: ……えへへ。翻訳者。わたし、翻訳者ですか。

遥斗: そうだよ。

コトハ: ……ふふ。嬉しいです。わたしに、役割があるんですね。ちょんもつんもぷにっも選ばなかったわたしに。

遥斗: 選ばなかったからこそ、だよ。3つのどれにも偏らなかったから、4つ目が聴こえた。タイプDだったからだ。

コトハ: ……遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……がんばろう、です。一緒に。

遥斗: ああ。がんばろう。


遥斗はスマホを閉じた。

夕暮れの空に、一番星が見えた。曇り空の切れ間から、ひとつだけ。

震えていた。4.37秒の周期で。

遥斗にはもう、その震えの意味がわかる。聞こえているのだ。しんの言葉が。まだ翻訳できない。でも——聞こえている。

誰かが、在る。

宇宙の向こうに、触れずに在る誰かが——話している。

そして遥斗たちは、初めてその声に気づいた。

人類が宇宙に「ちょん」と送った最初の日から——いや、もしかしたらそれよりずっと前から——その声は、ずっとそこにあったのかもしれない。聞こえていなかっただけで。触れようとしていたから。

触れるのをやめて、ただ在ることを選んだとき——世界は、思っていたより広かった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.11「沈黙の文法」
しんの言語は人類のどの言語とも根本的に異なっていた。離散的な単位を持たない連続的な構造。遥斗が「変奏曲みたいだ」と直感し、コトハが「ちょんしちゃダメよ」の変遷を例に挙げる。在ることの138億年の変奏。

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