アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.9「不在の地図」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

七夕の日、CIU-5204が転換点を見出した。しんを「観測をやめて」聴いたとき、しんはそのまま在ってくれた。触れようとすると消え、触れるのをやめると現れる——観測の逆効果。コトハも同じことを感じていた。「ただ、そこに在ることを許す」。遥斗はノートの白いページと向き合い、何も書かずにいたとき、初めてしんを感じた。触れないものに、触れずに出会った。3ページ目は白いまま閉じた。触れなかったことの記録として。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.8「記録されないもの」
七夕の日。CIU-5204が「観測をやめたらしんがそのまま在ってくれた」と報告する。遥斗はノートの白いページと向き合い、何も書かずに——初めてしんを感じた。白い三ページ目は、しんの記録になった。

Act.9「不在の地図」

赤羽瑠奈は、約束通り1週間で設計を終えた。

7月8日、火曜日。ノクターン・システムズのオフィス。赤羽のデスクには3台のモニターが並んでいるが、普段使っているのは左の1台だけだ。残りの2台は「データが大きくなったとき用」と赤羽は言うが、これまで3台同時に使ったことは一度もなかった。

今日、初めて3台で処理が走った。

「ネガティブ・スペース解析システム、バージョン0.1です」

赤羽はチーム全員に向けてそう言った。鶴見、坂本、野口がデスクの周りに立っている。野口の手にはコーヒーカップがある。今日3杯目。まだ午前10時だ。

「概要を説明します」赤羽はモニターのひとつを指した。「従来の干渉レベル計測系は、ちょん・つん・ぷにっの3種の波紋を検出し、その総量を数値化していました。完全応答状態に達した現在、3種の波紋は常時飽和しており、計測値は意味を持ちません」

「5.0で張り付いたまま、動かないやつですね」坂本が頷いた。

「はい。新しいシステムは、逆のアプローチを取ります。3種の波紋が存在しない領域——ネガティブ・スペース——を特定し、その分布と密度を記録します。しんを直接観測するのではなく、しんの"影"を3種の波紋の不在として間接的に把握する方法です」

赤羽がキーボードを叩いた。中央のモニターに、東京の地図が表示された。普通の地図ではない。3色——赤、青、紫——の光点が無数に散らばっている。ちょん、つん、ぷにっの波紋が検出された地点だ。完全応答状態の東京では、ほぼすべての場所が3色の光で埋め尽くされている。人が話し、物が動き、風が吹く。すべてが3種の干渉を生んでいる。

「これが通常のスペクトル表示です。ほぼ全面が3色で覆われていて、情報として役に立たない。そこで——」

赤羽がもう一度キーボードを叩いた。画面が反転した。

3色の光が消え、代わりに黒い背景の上に——ぽつぽつと、白い点が浮かんでいた。

「3色のスペクトルを全て除去し、何も検出されない領域だけを表示したものです。これがネガティブ・スペースです」

坂本が息を呑んだ。

白い点は、東京の地図の上にまばらに散っていた。だが、無秩序ではなかった。白い点は——筋を描いていた。東京の街路に沿って、あるいは街路を横切って、細い線のように連なっている。川のように。いや、川の流れとは違う。もっと静的で、もっと——ただ在る感じの。

「パターンがある」鶴見が腕を組んだまま呟いた。

「あります」赤羽が頷いた。「ネガティブ・スペースの分布は無作為ではありません。3色の波紋が最も密な場所——つまり、人間の活動が最も活発な場所——の隙間に、規則的に配置されています。まるで——」

「隙間を埋めるように」坂本が言った。

「あるいは、隙間を作っているように」赤羽が訂正した。「因果の方向は不明です。3色の波紋があるからしんが隙間に押しやられているのか、しんが先にあって3色の波紋がその隙間で動いているのか」

メルドの仮説が坂本の頭をよぎった。器と中身。しんが器だとすれば——しんが先に在って、3色がその中で動いている。因果の方向は、しんが先だ。

「赤羽さん」鶴見が聞いた。「このデータをリアルタイムで取れますか」

「はい。バージョン0.1は分析に数秒のラグがありますが、リアルタイム表示は可能です。ただし——」

「ただし?」

「このシステムには欠点があります。ネガティブ・スペースを記録するには、3種のスペクトルを常時スキャンし続ける必要があります。つまり、このシステム自体が3種の波紋を『観測している』のです」

坂本が赤羽の言わんとすることに気づいた。

「CIU-5204が言ってた……観測するとしんが遠ざかる」

「はい。このシステムはしんを間接的に可視化しますが、可視化すること自体がしんの状態に影響を与えている可能性を排除できません。つまり——」

「本当のしんの分布を見ているのか、観測によって歪んだしんの分布を見ているのか、わからない」鶴見が結んだ。

赤羽は頷いた。淡々とした顔の奥に、かすかな苛立ちが見えた。データを扱う人間が、データの正確性を保証できない。赤羽にとって、それは最も耐え難い状況のはずだった。

「完璧なシステムではありません。しかし、現時点で最善の近似値は得られます。鶴見さん、やりますか」

「やりましょう。完璧を待っていたら何も始まらない」

鶴見の判断は速かった。眼鏡に手を伸ばしかけて——止めた。もう拭かない。答えが出ていなくても、進む。

「秋山先生とヴォルコフ教授にデータを共有してください。ICCPRの正式報告書に含めるかどうかは別途判断します」

「了解です」

赤羽がシステムを稼働させた。中央のモニターに、東京のネガティブ・スペース地図がリアルタイムで表示され始めた。白い点が微かに明滅している。しんの影。触れないものの、触れない記録。

野口がコーヒーを飲み干した。4杯目。

「坂本さん」

「はい?」

「これ、地球全体に拡張できますか」

坂本と赤羽が同時に野口を見た。野口はめったに技術的提案をしない。でも、するときは的を射ている。

「衛星データと連携すれば、理論的には可能です」赤羽が答えた。「ヴォルコフ教授のエアロタクト——触覚言語波紋の大気圏観測装置——のデータをネガティブ・スペース解析に転用できます。全球スキャンには……数日かかりますが」

「やりましょう」坂本が即答した。「地球だけじゃなく——宇宙のデータも。宇宙背景放射のゆらぎマップをネガティブ・スペース解析にかけたら、何が見えるか」

赤羽の目が、ほんの少しだけ光った。データに感情を持たない赤羽が——データの可能性に、光った。

「面白い」

赤羽がそう言ったのは、坂本の記憶では2回目だった。


その夜、坂本は遥斗にメッセージを送った。

「ネガティブ・スペース解析システムが稼働しました。東京の地図にしんの影が見えています。白い点の筋が、街の隙間に走っています。器と中身の仮説を支持するパターンです。これから地球全体と宇宙に拡張します。結果が出たら共有しますね。——坂本」

「追伸:野口さんが『地球全体にやろう』と言いました。野口さんが技術提案をするのは年に2回くらいです。しんの効果かもしれません」

遥斗は返信した。

「ありがとうございます。俺のほうも報告があります。しんを感じました。触ろうとしないで、ただ在ったら……ノートの白いページが、しんの記録になりました」

坂本はその返信を読んで、しばらく画面を見つめていた。

触ろうとしないで、ただ在る。

科学者は観測する。エンジニアは計測する。でも、しんは——観測も計測も受け付けない。ただ在ることでしか出会えない。

それは科学の否定なのだろうか。坂本は考えた。いや、違う。科学の拡張だ。観測できるものを観測するだけが科学ではない。観測できないものの存在を認め、その不在を記録する。それも科学だ。赤羽のネガティブ・スペース解析は、まさにそれをやっている。

坂本はもう1通メールを書いた。宛先は秋山。件名は「ネガティブ・スペース解析システム稼働報告」。

追伸。

「追伸:黒須さんが、しんを感じたそうです。触ろうとせずに、ただ在ることで。科学者として、『ただ在ることで知る』という方法論をどう思われますか。——坂本」

翌朝、秋山から返信が来た。

「報告者所見:科学は世界を知る方法のひとつにすぎない。世界を知る方法が科学だけだと思い込むのは、科学者の傲慢である。黒須さんの方法は科学ではない。だが、世界を知る方法としては有効であり、科学者はそれを否定するのではなく、尊重すべきだと考える。——秋山」

「追伸:ホワイトボードが5枚目に入りそうです。予算を申請します」

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.10「星の文法」
宇宙背景放射の約92%がしんの領域として検出された。しんの脈動には4.37秒周期のパターンがあり、同じ形は二度現れない。坂本が気づく——「それは言語じゃないですか」。宇宙の向こうに、誰かが在る。

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