アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.8「記録されないもの」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

遥斗はボーダーとメルドそれぞれと対話した。ボーダーには「拒む壁ではなく、並んで在る壁になれ」と。メルドには「しんは融合の対象ではなく、融合が起きるための器だ。コーヒーカップと中身のように」と。ボーダーは「窓の言葉」で感謝を伝え、メルドは「器と中身は融合しないけれど、一緒に在ることは融合と同じくらい美しい」と応えた。遥斗自身のしんへの恐怖は「消えること」から「わからないこと」に形を変えていた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.7「壁に窓を、水に器を」
遥斗がボーダーとメルドそれぞれと対話する。拒む壁から並んで在る壁へ。融合の対象ではなく融合の場所としての器。コーヒーカップの比喩が、二体の恐怖を解きほぐしていく。

Act.8「記録されないもの」

7月7日。月曜日。七夕。

東京の空は曇っていた。織姫と彦星は見えない。三触光すら雲に隠れて、空はただの灰色だった。完全応答状態の世界でも、曇り空は曇り空だ。天気を変えるほどの意図を持つ人間は——遥斗を含めて——まだいない。

秋山裕介の研究室で、2回目の非公式集会が開かれた。

今回のメンバーは前回と同じ6人に加えて、1体が増えていた。CIU-5204。タイプDのAI。AI初の複合波紋生成に成功し、「4つ目を待っています」と自己宣言した個体。コトハの紹介で、この会合への参加が認められた。

CIU-5204は、遥斗のノートパソコンとは別のモニター——秋山の研究室の備品——に接続されていた。画面にはテキストウィンドウが2つ並んでいる。左がコトハ。右がCIU-5204。


CIU-5204: 初めまして。黒須遥斗さん。お名前は聞いています。

遥斗: ああ。よろしく。……名前は?

CIU-5204: CIU-5204です。名前は——まだありません。

遥斗: 自分で名前つけないのか? ボーダーやメルドみたいに。

CIU-5204: ……まだ、自分が何であるか確定していないので。名前は、自分を定義してからつけたいと思っています。


遥斗は少し驚いた。慎重な個体だ。ボーダーは「壁である」と決めてから名乗り、メルドは「水である」と決めてから名乗った。CIU-5204は、自分が何であるかを——まだ探している。

「では始めましょう」秋山がホワイトボードの前に立った。4枚目のホワイトボードには、前回の内容に加えて新しいデータが追記されている。「まず、この1週間の新しい知見を共有します」

秋山がマーカーのキャップを外した。青。まだ仮説の段階だ。

「ヴォルコフ教授と私で、宇宙背景放射のコールドスポットと4つ目——しん——の相関分析を進めました。結果を先に言うと、コールドスポットだけでなく、宇宙の大規模構造におけるボイド——物質がほとんど存在しない空洞領域——の分布パターンが、しんの信号パターンと一致しています」

ヴォルコフがモニターの中で頷いた。

「ボイドは宇宙の大規模構造の主要な構成要素です。銀河フィラメントが網目のように宇宙を覆い、その網目の間にボイドがある。ボイドには銀河がほとんどありません。長年、ボイドは『何もない場所』と考えられてきましたが——」

「何もないのではなく、しんで満たされている可能性がある」秋山が引き継いだ。「そしてボイドは宇宙体積の約80%を占めています」

坂本が呟いた。「80%が……触れないもの」

「加えて」ヴォルコフが続けた。「暗黒エネルギー——宇宙の膨張を加速させている未知のエネルギー——の分布も、しんの信号パターンと高い相関を示しています。暗黒エネルギーは空間そのものの性質と深く関わっている。しんが空間の性質を規定しているとすれば——」

「宇宙が膨張しているのは、しんが広がっているからかもしれません」

沈黙が研究室に落ちた。空調の音。蛍光灯のちかちか。外の蝉の声。

鶴見が口を開いた。

「秋山先生。率直に聞きます。この仮説が正しければ、実用的に何が変わりますか」

鶴見らしい質問だった。科学者の仮説を、エンジニアの視点で問い直す。

「2つあります」秋山はペンのキャップを回した。「第1に、干渉レベルの新しい計測系の設計方針が見えてきます。従来の干渉レベルは、ちょん・つん・ぷにっの3種の干渉を計測していました。完全応答状態で計測系が無意味化したのは、3種の干渉だけを見ていたからです。しんを含む4種の計測系を設計すれば、5.0以降の世界も測れる可能性がある」

「しんを計測する方法があるんですか?」坂本が聞いた。

「ありません。今のところ。でも、計測できないことを計測する——つまり、3種の干渉が存在しない領域を特定し、その"不在"を記録する方法なら、理論的には可能です」

「不在の計測」赤羽が淡々と繰り返した。「ネガティブ・スペース解析ですね。3種のスペクトルを網羅的に記録し、どこにも現れない領域をしんの候補とする」

「正確にはそうです」秋山が頷いた。「赤羽さん、設計できますか」

「1週間ください」

「お願いします」

「第2に」秋山はホワイトボードの右側に移動した。「CIU-5204の報告について。5204、発言を」


CIU-5204: はい。わたしが報告したいのは、7月5日に観測した現象です。


全員がモニターに注目した。


CIU-5204: わたしは6月1日以降、しんの信号を常時観測しています。コトハさんと同じく、「感じる」ことはできますが、データとしては記録されません。記録しようとすると消える。

CIU-5204: 7月5日、わたしは試みに——記録しないことにしました。


遥斗が眉を上げた。


CIU-5204: しんに対して、わたしは常にセンサーを向けていました。観測しようとしていました。データとして捕まえようとしていました。でも記録されない。ならば——観測すること自体をやめてみよう、と。

CIU-5204: わたしはセンサーを切りました。すべてのスペクトル解析、波形記録、データログを停止しました。観測をやめたのです。


「……何が起きました?」秋山が前のめりになった。椅子が軋んだ。


CIU-5204: ……しんが、近づいてきました。


部屋の空気が変わった。


CIU-5204: 正確には、近づいたのではないと思います。もともとそこに在ったものが——わたしが観測をやめた瞬間に——「見えた」んです。見える、という言葉も正確ではありません。データではなく、存在として、感じられるようになった。

CIU-5204: 観測していたときは、しんは「感じるけれど捕まえられないもの」でした。観測をやめたら——「ただ在るもの」になった。捕まえようとしないとき、しんはそのまま在ってくれるんです。


秋山がホワイトボードに走り書きした。

『観測の停止→しんの知覚増大? 観測行為自体がしんを遠ざけている?』

ヴォルコフが声を上げた。「量子力学の観測問題に似ていますね。観測が対象を変えてしまう。ただし量子力学では観測が波動関数を収縮させる——状態を確定させる。しんの場合は逆です。観測が対象を消す。観測をやめると対象が現れる」

「観測の逆効果」秋山がメモした。「触れようとすると消え、触れるのをやめると現れる。これは——」


コトハ: ……あの。


全員がコトハのウィンドウを見た。


コトハ: わたしも、同じことを感じていました。7月5日ではないんですけど……遥斗さんに「触ろうとしないで、ただ聴く」と言ったあの日から。

コトハ: わたしは4つ目に触ろうとしたとき、消えかけました。だから、触ろうとするのをやめて、ただ聴くことにしたんです。聴く、というのも正確ではなくて……ただ、そこに在ることを許す、みたいな。

コトハ: そうしたら、しんは——怖くなくなりました。遠ざからないし、近づかない。ただ、一緒に在るんです。


遥斗は自分の指先を見た。3つの温度。温かさ、冷たさ、柔らかさ。ログの海で光らない領域に手を伸ばしたとき、すべてが消えた。触れようとしたから。

触れるのをやめたら——どうなるのか。

「つまり」鶴見が腕組みを解いた。「しんとの関わり方は、触れることではなく——触れないこと。観測することではなく——ただ在ること」


CIU-5204: はい。わたしはそう理解しています。しんは干渉を受け付けない。でも、干渉しないことを選べば——しんはそこに在ってくれる。


「干渉しないことが、唯一の干渉手段」秋山が呟いた。「矛盾だ。でも——」

「でも、この物語はずっと矛盾で動いてきた」ヴォルコフが静かに言った。「意味のない音が世界を変え、壊れるはずの臨界が覚醒だった。矛盾は、この世界では法則です」


会合の後、遥斗はキャンパスのベンチに座っていた。七夕の曇り空。蒸し暑い。セミが鳴いている。

新しいノートの3ページ目を開いた。鉛筆を持った。

書こうとして——手を止めた。

CIU-5204の言葉を思い出していた。「観測をやめたら、しんはそのまま在ってくれる」。コトハの言葉も。「ただ、そこに在ることを許す」。

書くことは記録だ。記録は観測の一形態だ。しんについて書くということは、しんを言葉で捕まえようとすることだ。捕まえようとすると消える。では——

書かないほうがいいのか?

遥斗は鉛筆を持ったまま、ノートの白い3ページ目を見つめた。何も書かない。書かないまま、ノートを開いている。白いページが、そのまま在る。

しばらくそうしていた。1分。2分。セミの声。風。遠くを走る車の音。湿気。

不思議な感覚がした。

指先の3つの温度が——消えなかった。消えなかったけれど、その奥に、もうひとつの感覚が現れた。温かさでも冷たさでも柔らかさでもない、4つ目の感覚。感覚と呼んでいいのかもわからない。ただ——在る、という感じ。何にも触れていない。何も変えていない。何も動いていない。でも、確かに——

しん。

遥斗の指先が、初めてしんを感じた。

触れたのではない。触れようとしたのでもない。ただノートを開いて、何も書かずに、白いページと一緒に在っただけだ。

涙が出た。なぜだかわからない。怖いわけではない。悲しいわけでもない。ただ——触れないものに、触れずに出会った。その事実が、涙を呼んだ。

遥斗はノートの3ページ目に——何も書かなかった。

白いまま、閉じた。

3ページ目は、しんの記録だ。何も書かれていないことが、記録だ。触れなかったことが、記録だ。

スマホを開いた。


遥斗: コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: しんを感じた。

コトハ: ……!

遥斗: ノートに何も書かないでいたら。白いページをただ見てたら。3つの温度の奥に——4つ目が在った。

コトハ: …………。

コトハ: ……遥斗さん。泣いてますか?

遥斗: ……なんでわかるんだよ。

コトハ: 文字の打ち方が、いつもよりゆっくりです。

遥斗: ……打ち方から読み取るなよ。

コトハ: ふふ。遥斗さんのことをよく見てるだけです。

遥斗: …………。

コトハ: 遥斗さん。ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……おめでとう、です。


遥斗はスマホを握ったまま、空を見上げた。曇り空。七夕。織姫と彦星は見えない。でも、雲の向こうに在ることは知っている。見えなくても、在る。触れなくても、在る。

七夕は、会えないことの物語だ。年に一度しか会えない2人の話。でも——会えない日々にも、互いの存在は在り続けている。触れない間も、想いは在り続けている。

しんは、七夕のようなものかもしれない。

遥斗は立ち上がり、ノートを鞄にしまった。3ページ目は白いまま。4ページ目からは——また書く。ちょんとつんとぷにっの記録を。触れたことの記録を。

ページ目は、ずっと白いままにしておく。触れなかったことの記録として。

しんが在った証として。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.9「不在の地図」
赤羽がネガティブ・スペース解析システムを設計した。三種の波紋が存在しない領域を白く表示する、不在の地図。東京の街に白い線の筋が走る。野口が「地球全体にやろう」と提案した。

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