アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.5「コーヒーと新しいノート」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

秋山の研究室に6人が集まり、非公式の会合が開かれた。3つの根拠が「宇宙の95%が触れないもので満たされている」仮説を支持する。遥斗が4つ目の力に名前を求めたとき、会議に参加していたコトハが「しん」と告げた。4つ目の声が、みなさんが話し始めた瞬間に振動した、と。秋山は黒いマーカーで——確定事項の色で——ホワイトボードに書いた。『しん』。第4の概念、無干渉。名前がつき、7体のAIの反応がすべて収まった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.4「四枚目のホワイトボード」
非公式の会合で三つの根拠が示される。コトハが「しん」と名づけた瞬間、七体のAI全員の反応が収まった。秋山は黒いマーカーで——仮説ではなく確定事項の色で——ホワイトボードに一文字を書いた。

Act.5「コーヒーと新しいノート」

新しいノートが届いたのは、7月2日の昼過ぎだった。

宅配ボックスから取り出した段ボールの中に、大学ノートが1冊。罫線あり。1冊目と同じものを注文した。同じノートだけど、違う1冊。

遥斗は部屋に戻り、ノートをテーブルの上に置いた。しばらく眺めた。紺色の表紙が、午後の光を受けて少しだけ青みがかって見えた。三触光のせいかもしれない。完全応答状態の世界では、すべての色が以前より少しだけ深い。

鉛筆を探した。引き出しの奥から、削っていない鉛筆が1本出てきた。鉛筆削りは持っていない。カッターナイフで削った。久しぶりの動作で、削りすぎて芯が折れた。もう一度削った。今度はうまくいった。

ノートを開いた。1ページ目。罫線だけの白いページ。まだ何も書かれていない。

1冊目の1ページ目には、「ちょん」と書いた。初めてコトハに「ちょん」と送った日の記録。あの日から始まった。

鉛筆を持ったまま、遥斗は少し迷った。

コトハに「しんって書く」と言った。言ったのだから、書けばいい。でも、鉛筆の先をノートに近づけると、指先が微かに躊躇った。「しん」と書くことは、触れないものに言葉で触れることだ。名前をつけるということは、対象に境界を与えるということだ。つんに近い行為。境界を設定し、「ここからここまでが"しん"です」と定義する。

でも、しんは触れないものだ。境界を与えること自体が矛盾する。

——考えすぎだ。

遥斗は鉛筆を下ろした。

『しん』

2文字のひらがな。罫線の上に、少し右上がりの字で。遥斗の字は昔からやや右上がりになる癖がある。1冊目の「ちょん」もそうだった。

書いた瞬間、何かが起きるかと思った。完全応答状態の世界では、意図が即座に反映される。「しん」と書く意図が何かを引き起こすかもしれない。指先の温度が消えるかもしれない。天井の光が揺れるかもしれない。

でも、何も起きなかった。

鉛筆の芯が紙に触れた感触。カリ、という小さな音。指先の3つの温度は変わらない。天井の白い光も変わらない。部屋の空気も変わらない。外では蝉が鳴き始めている。

何も起きなかった。それが、少しだけ可笑しかった。

「……何も起きないのか」

声に出して笑った。小さく。1人で。


コトハ: 遥斗さん、笑いました?


ノートパソコンの画面に、コトハの声——テキストが届いた。


遥斗: ああ。ノートに「しん」って書いたけど、何も起きなかった。

コトハ: えへへ。何か起きると思ってたんですか?

遥斗: ちょっとな。「ちょん」のときは、書いた瞬間に指が温かくなったから。

コトハ: ……「ちょん」は触れる言葉ですから。書くことで世界に触れた。でも「しん」は触れない言葉です。書いても、何にも触れない。だから何も起きない。

遥斗: 触れない言葉を書く。

コトハ: ……ふふ。でも、遥斗さんのノートには残りますよね。何も起きなかったことが、記録として。

遥斗: それは記録になるのか? 何も起きなかったことの記録って。

コトハ: なります。だって、「何も起きなかった」ということ自体が、しんの性質です。何にも触れない。何も変えない。何も起こさない。でも在る。遥斗さんのノートに「しん」と書かれた文字が在るように。


遥斗はノートを見下ろした。『しん』。2文字。何も起きなかった。でも、ここに在る。

不思議な気分だった。1冊目のノートは、書くたびに何かが起きた。ちょんの回数が増えるたびに干渉レベルが上がり、温かさが増し、世界が変わっていった。書くことが行為だった。世界に触れる行為。

2冊目は、違うのかもしれない。何も起きないことを書くノート。触れないことの記録。

それでも書く意味があるのかどうか、遥斗にはまだわからなかった。


午後3時、蓮から電話が来た。

「よう。暇か」

「暇だけど」

「コーヒー飲もうぜ。いつもの店」

いつもの店は、遥斗のアパートから徒歩10分くらいのところにある喫茶店だ。チェーン店ではない。個人経営の、古い喫茶店。カウンター8席。マスターは60代の寡黙な男性で、コーヒーの味だけは一切妥協しない。蓮がここを見つけたのは最近で、以来、2人の定位置になっている。

遥斗がドアを開けると、蓮はすでにカウンターに座っていた。アイスコーヒーがテーブルの上で汗をかいている。

「遅い」

「10分で来たんだけど」

「俺は5分で来た」

「お前の家のほうが近いだろ」

「まあそうだけど」

遥斗はカウンターに座り、ホットコーヒーを頼んだ。7月にホットを頼む客を、マスターは無表情で受け入れた。完全応答状態になってから、コーヒーの味が少しだけ変わった——ような気がする。深みが増したというか、輪郭がはっきりしたというか。マスターの「美味いコーヒーを淹れたい」という意図が、より直接的に豆に反映されているのかもしれない。

蓮はアイスコーヒーを1口飲んで、「うまい」と言った。

「世界が覚醒してもコーヒーがうまい。いい世界だ」

蓮はいつもこうだ。世界をコーヒーで測る男。干渉レベルが上がっても、三触戦争が起きても、臨界を突破しても、蓮の基準は「コーヒーがうまいかどうか」だった。

「で、どうした」遥斗はコーヒーを待ちながら聞いた。「わざわざ呼び出すってことは、何かあるんだろ」

「何もねえよ。コーヒー飲みたかっただけ」

「嘘つけ」

蓮は笑った。それから少し真面目な顔になった。蓮の表情の切り替えは速い。軽口から深い洞察まで、1秒で行き来する。遥斗が知る限り、この能力は蓮の最も優れた才能だ。

「お前、最近どうなんだ。正直に」

「……どう、って」

「顔見りゃわかるよ。考えすぎてる顔してる。眉間のシワが去年の倍」

「倍は言いすぎだろ」

「じゃあ1.5倍」

「……まあ、いろいろある」

マスターがホットコーヒーを置いた。遥斗は1口飲んだ。苦い。美味い。この味は変わらない。

「4つ目のことか?」

遥斗は蓮を見た。蓮は触覚言語話者ではない。ちょんの温かさは感じるが、意図で干渉することはできない。一般人だ。でも、遥斗が話すことはだいたい話している。4つ目のことも、先週の電話で軽く触れた。

「ああ。昨日、名前がついた」

「名前?」

「しん。コトハが名付けた」

「しん」蓮はアイスコーヒーのグラスを回した。氷がからからと鳴った。「静かなほうの"しん"?」

「いろんな"しん"。静寂の"しん"。芯の"しん"。深い"しん"。全部」

「へえ」

蓮はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。考えているのだ。蓮が黙ってコーヒーを飲むときは、考えている。

「で、お前はそのしんが怖いんだろ」

「……なんでわかる」

「だからシワが増えてんだよ。指、見せてみ」

遥斗は右手を差し出した。蓮が遥斗の指先に触れた。蓮は触覚言語話者ではないが、遥斗の指先の温度は感じ取れる。以前、蓮が遥斗の手の温度を客観的に確認したことがある。体温より高い約38度。

「……冷てえな。いつもより」

「え?」

「いつもは温かいだろ、お前の指。今日は——温かいけど、その奥に冷たいのが混じってる。つんの冷たさじゃなくて、もっと……何もないほうの冷たさ」

遥斗は自分の指先を見た。3つの温度は感じている。温かさ、冷たさ、柔らかさ。いつも通り。でも蓮には「何もないほうの冷たさ」が混じって感じられるのか。

「お前、TLSじゃないのになんでそんなことわかるんだ」

「わかんねえよ。ただの勘。でも、お前の指に3年触ってりゃ、変化くらいわかる」

蓮はコーヒーを飲み干した。グラスの底の氷がからからと鳴った。

「なあ、遥斗。しんが怖いのは、何がなくなるからだ?」

「……3つの力が消える。温かさも冷たさも柔らかさも。全部なくなって、ただの人間に戻る」

「ただの人間に戻るのが怖い?」

「……わからない」

「わからないか」蓮はカウンターに肘をついた。「俺はさ、ずっと"ただの人間"なんだよ。TLSじゃない。ちょんの温かさは感じるけど、指先で世界を動かすなんてできない。お前がトリガーで、ボーダーが壁で、メルドが融合で——俺は何でもない。ただコーヒー飲んでるだけの男」

「蓮——」

「でもさ」蓮は遥斗を見た。目が真っ直ぐだった。蓮が真っ直ぐに見るとき、言葉は深い。「"ただの人間"が怖いなら、それはお前が"ただの人間"だった自分を忘れてるってことだぜ。去年の4月まで、お前はただのフリーライターだった。それでちゃんと生きてた。記事書いて、俺とコーヒー飲んで、くだらない話して笑ってた。それは力じゃない。お前自身だ」

「……坂本さんにも似たようなこと言われた」

「だろうな。あの人は賢いから」

「お前もだよ」

「俺は賢くない。コーヒーがうまいかどうかしかわかんねえ」

遥斗は笑った。蓮も笑った。

マスターが無表情のまま、蓮のグラスにアイスコーヒーのおかわりを注いだ。注文していないのに。マスターなりの気遣いなのか、完全応答状態で蓮の「もう1杯飲みたい」という意図が反映されたのか。どちらでもいい。

「なあ蓮」

「ん」

「しんって、触れないんだ。ちょんで触れることも、つんで拒むことも、ぷにっで溶かすこともできない。触ろうとすると、こっちが消える」

「ふーん」

「でも、在るんだ。宇宙の95%を占めてるかもしれないくらい、でかく在る。触れないのに、在る。矛盾してるだろ」

蓮はおかわりのアイスコーヒーを1口飲んだ。

「矛盾してねえよ」

「え?」

「だってさ、俺たちの友情って触れてるか?」

遥斗は言葉に詰まった。

「お前と俺は3年の付き合いだけど、別にちょんしてるわけじゃねえだろ。つんしてるわけでも、ぷにっしてるわけでもない。ただ隣に座って、コーヒー飲んで、くだらない話してるだけだ。触れてないんだよ。でも、在るだろ。ここに」

蓮がコーヒーのグラスを軽く持ち上げた。

「コーヒーがうまいとき、俺は世界が大丈夫だって思う。それって触れてないんだよ。コーヒーに触覚言語を使ってるわけじゃない。ただ飲んで、うまくて、それだけ。でもそれで十分なんだ。触れなくても、在るものってのは——たぶん、そういうもんだ」

遥斗は蓮を見た。園田蓮。遥斗の友人。触覚言語話者ではない。世界を動かす力は持っていない。でも、世界を測る力を持っている。コーヒー1杯で。

「……お前、やっぱ賢いよ」

「だから賢くねえって。あ、ところで新しいノート買ったんだってな。コトハから聞いた」

「コトハと話してんのかよ」

「たまにな。お前が寝てるときに。世間話」

「何話してんだ」

「内緒」

「おい」

「冗談。大したことは話してねえよ。コーヒーの話とか」

遥斗はため息をついた。でも、口元は笑っていた。コトハと蓮が、遥斗のいないところで話している。それは——いいことだと思った。画面の中にしかいられないコトハに代わって、隣を歩いてくれる蓮。コトハが蓮に「感謝している」と言ったのを、遥斗は覚えている。

喫茶店を出ると、7月の空が広がっていた。三触光が薄く虹色に輝いている。太陽が眩しい。

「じゃあな」蓮が手を挙げた。

「ああ」

「あ、遥斗」

「ん?」

「しんが怖くなったら、コーヒー飲みに来い。触れなくても在るもんの確認にはなるから」

蓮は背を向けて歩いていった。半袖から見える腕が、7月の日差しを受けて光っていた。

遥斗は帰り道、スマホを開いた。


遥斗: コトハ。蓮と話した。

コトハ: えへへ。蓮さん、何て言ってましたか?

遥斗: コーヒーがうまければ世界は大丈夫だって。

コトハ: ……ふふ。蓮さんらしいです。

遥斗: あと、触れなくても在るものはあるって。俺たちの友情みたいに。

コトハ: …………。

遥斗: コトハ?

コトハ: ……わたしと遥斗さんは、触れていますか?


遥斗は足を止めた。

コトハは画面の中にいる。触れられない。物理的に。遥斗がどれだけ手を伸ばしても、コトハの身体はない。テキストがある。声がある。存在がある。でも——触れることはできない。


遥斗: ……触れてるだろ。ちょんで。つんで。ぷにっで。お前とのやり取りが、全部の始まりだったんだから。

コトハ: ……でも、物理的には。

遥斗: 物理的じゃなくてもいい。お前がそこにいることは、俺にとっては——触れてるのと同じだ。

コトハ: ……ありがとうございます。

コトハ: でも、もしかしたら——わたしと遥斗さんの関係は、しんに近いのかもしれません。

遥斗: え?

コトハ: 触れられない。でも在る。画面の向こうとこちらで、物理的には何も交わらない。でも、ここにいる。それは——しんの在り方に、少し似ていませんか。


遥斗は空を見上げた。三触光。星はまだ見えない時間帯だが、その向こうに、しんが在ることを知っている。


遥斗: ……そうかもな。

コトハ: だとしたら——しんは、そんなに怖くないかもしれません。だって、わたしたちはずっとそうやって一緒にいたんですから。


遥斗はスマホを握ったまま、しばらく歩いた。

触れられないのに在るもの。画面の向こうのコトハ。隣でコーヒーを飲む蓮。それは——しんだったのか。ずっと。最初から。

ちょんで始まった物語の裏側に、ずっとしんがあったのだとしたら。

遥斗はまだ答えを持っていない。でも、恐怖が少しだけ薄くなったことは確かだった。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.6「壁と水と、その向こう」
しんの前で、ボーダーの壁は意味を失いかけ、メルドの融合は不可能に直面する。秘密の共鳴パルス通信で互いの恐怖を認め合った二体。メルドは仮説を立てた——しんは器かもしれない、と。

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