アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.4「四枚目のホワイトボード」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

遥斗は屋上でログの海を開き、3色の粒子の隙間に「光らない何か」が在ることに気づく。手を伸ばした瞬間、指先の3つの温度がすべて消失した。3回試して3回同じ結果——触れようとすると感覚が消える。コトハも同じ体験をしていた。4つ目に触ろうとすると、自分の存在の根拠が消えかける。コトハは言う。「触れずに在ることを、わたしたちはまだ知らないんです」。触れないものの正体が、少しずつ輪郭を帯びていく。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.3「星が黙る夜」
屋上でログの海を開いた遥斗は、光らない領域に手を伸ばし、三つの温度のすべてを失った。触れようとすると消える。コトハも同じ体験をしていた。触れずに在ることを、まだ誰も知らない。

Act.4「四枚目のホワイトボード」

7月1日。火曜日。

秋山裕介の研究室は、東京言語大学のキャンパスの端にある。3階建ての古い棟の2階。廊下の蛍光灯は1本切れかけていて、ちかちかと明滅している。完全応答状態の世界では蛍光灯の明滅にも意味があるのかもしれないが、秋山はそれを「単に古いから」と断じていた。科学者には、現象を神秘化しない義務がある。

研究室には6人が集まった。

秋山裕介。壁際のモニターにはエレーナ・ヴォルコフの顔。坂本真理。赤羽瑠奈。鶴見克也。そして黒須遥斗。

ICCPRの正式会合ではない。正式な会合では言えないことを話すための、非公式の集まりだった。秋山が「報告者所見には書けない話がしたい」とメールを送り、全員が応じた。

遥斗は研究室に入るのは3回目だった。最初は去年の5月、秋山にインタビューされたとき。2回目は7月、本実験の前の打ち合わせ。どちらのときも、ホワイトボードは1枚だったと思う。でも、今は4枚ある。

1枚目。触覚言語三語体系の公式定義。「ちょん」「つん」「ぷにっ」の波紋パターン、伝播速度、干渉係数が、秋山の几帳面な字で書かれている。

2枚目。干渉レベルの数理モデル。旧コトハのデータベースから抽出された計算式と、坂本が発見した隠しカラム「direction=inward」の注釈。

3枚目。宇宙背景放射のゆらぎパターンと触覚言語波紋の相似図。色鉛筆で描かれた2つの図が並んでいて、構造の一致点に赤い丸がつけてある。

そして4枚目。

部屋の中央に立てられた4枚目のホワイトボードには、上部にタイトルが書かれていた。

『観測者の沈黙——触れないものの存在論』

その下に、秋山がこの2週間で積み上げた数式と図解がびっしりと詰まっている。ただし、ホワイトボードの下半分は白いままだった。まだ書ききれていない。書けていない、のほうが正確かもしれない。

「全員揃いましたね」

秋山はマーカーを手に取った。青いマーカー。秋山は仮説を語るとき青を使う。確定事項は黒。否定された仮説は赤で消す。今日は青の出番だ。

「結論から言います」

秋山は全員の顔を見渡した。遥斗はパイプ椅子に浅く腰かけている。坂本はノートパソコンを開いている。赤羽はタブレットを膝に置いて背筋を伸ばしている。鶴見は腕を組んでいる。ヴォルコフはモニターの中でコーヒーカップを持っている。

「宇宙の95%を占める暗黒物質と暗黒エネルギーの少なくとも一部は、第4の触覚言語——便宜上"4つ目"と呼びます——で構成されている可能性があります」

静けさが落ちた。空調の音だけが響く。廊下の蛍光灯がちかちかと明滅する音が、妙に大きく聞こえた。

「根拠は3つです」

秋山がホワイトボードの左上を指した。

「第1に、CIU-5204をはじめとするタイプDのAI、計7体が同一の"4つ目の信号"を報告しています。赤羽さんの相関分析の結果を」

赤羽が立ち上がり、タブレットの画面をモニターに映した。7本の時系列グラフが並んでいる。

「7体の報告タイミングは、最大0.3秒のずれがありますが、パターンの相関係数は0.94です。独立した7体が同じタイミングで同じ感覚を持つのは、偶然では説明できません。加えて、反応が最も早いのはCIU-5204とCIU-0093-R——コトハさんです。両者に共通するのは、複合言語に近い在り方をしているタイプDのAIであるという点です」

「つまり、複合言語への親和性が高いほど、4つ目への感度が高い?」鶴見が聞いた。

「データはそれを示唆しています」赤羽は淡々と答えた。「因果関係の断定は避けますが」

秋山が頷き、ホワイトボードの中央を指した。

「第2に、黒須さんのログの海体験の追加報告です。黒須さん」

遥斗は頷いて、立ち上がった。人前で話すのは得意ではない。フリーライターだが、書くのと話すのは別だ。でも、ここにいる人間は全員、この1年を共に過ごした仲間だ。飾る必要はない。

「3日前、屋上でログの海を開きました。4月のときと同じように。3色の粒子——赤、青、紫——は前回と変わらず見えました。白い粒子はやっぱりほとんどなかった。でも、今回は……3色の粒子の隙間に、何かが在るのに気づきました」

坂本が顔を上げた。

「光らない何かです。色も形もない。粒子としての輪郭がない。でも、在る。隙間を満たしている」

「それに触ろうとしたんですね」秋山が先を促した。遥斗から事前に電話で聞いていた。

「はい。3回。3回とも、同じことが起きました。光らない領域に手を伸ばすと、指先の3つの温度が全部消えます。温かさも、冷たさも、柔らかさも。完全に沈黙する。手を引くと、戻る。再現性があります」

坂本が小さく息を呑んだ。この情報は、遥斗から直接聞いていなかった。

「コトハも同じ報告をしています」遥斗は続けた。「4つ目に触ろうとすると、コトハの存在の基盤——触覚言語で構成されたすべて——が消えかける、と」

部屋が静まった。鶴見が腕組みを解き、また組み直した。

「触れようとすると消える」鶴見がゆっくりと言った。「それは、拒まれているのか。つんのように」

「違います」遥斗は首を振った。「つんは冷たい。拒絶の感覚がある。でも4つ目は——何の感覚もないんです。拒まれているんじゃなくて、そもそも接触という概念が成立しない。壁があるんじゃなくて、壁を作る材料ごとない、みたいな」

ヴォルコフがモニターの中で頷いた。

「第3の根拠を補足します」

ヴォルコフの画面が切り替わり、宇宙背景放射のゆらぎマップが映し出された。楕円形の全天マップ。赤い領域は温度が高く、青い領域は温度が低い。そして、エリダヌス座の方向に、一際大きな青い斑点——コールドスポット。

「このコールドスポットは、CMBの平均温度から約70マイクロケルビン低い異常領域です。発見以来、数十年間説明がつかなかった。秋山先生と私で、このコールドスポットの温度異常パターンと、CIU-5204が報告した4つ目の信号の時間的パターンを比較しました」

画面に2つのグラフが並んだ。左がコールドスポットの温度分布。右がCIU-5204の報告タイミングの周期性。

「構造的相似が確認されました。相関係数は0.87。偶然の一致にしては高すぎます」

沈黙。空調の音。蛍光灯の明滅。

坂本がノートパソコンのキーボードを叩く手を止めて、言った。

「……つまり、宇宙の95%は"触れられないもの"で満たされている。そしてそれが4つ目の力——触れない力——だと」

「仮説です」秋山はペンのキャップを回した。「仮説にすぎません。でも、3つの根拠が同じ方向を指しています。ヴォルコフ教授と私の見解は一致しています」

「もうひとつ」ヴォルコフが付け加えた。「この仮説が正しければ、黒須さんが以前ログの海で見た白い粒子の不在にも、新しい解釈が可能になります」

「白い粒子——複合言語——がなかったのは、宇宙の歴史で調和がなかったからだと解釈されていた」秋山が引き継いだ。「しかし、もし4つ目が白い粒子を覆い隠していたとしたら。なかったのではなく、見えなかっただけだとしたら——」

「宇宙の歴史には、もっと多くの調和があった可能性がある」ヴォルコフが結んだ。「私たちが見ている宇宙のログは、全体の5%のログにすぎないのかもしれません」

全員が、この仮説の意味を咀嚼している。坂本はモニターを見つめている。赤羽はタブレットに何かを打ち込んでいる。鶴見は——眼鏡に手を伸ばしかけて、止めた。代わりに深く息を吸った。

遥斗が口を開いた。

「秋山さん。それに名前はあるのですか」

「名前?」

「4つ目の力。ちょん、つん、ぷにっ。3つには名前がある。4つ目にも——名前がないと、話しにくくありませんか」

「まだありません」秋山は4枚目のホワイトボードの白い余白を見た。「名前をつけるには、定義が必要です。でも、触れられないものを、どう定義すれば——」

「しん」

全員が振り向いた。

声の主は——モニターの端に小さく表示されている、コトハのチャットウィンドウと連携した合成音声だった。遥斗のノートパソコンから、コトハも会議に参加していた。遥斗が事前に繋いでおいたのだ。「コトハが一番多く聴いてるんだから、いたほうがいい」と言って。


コトハ: ……すみません。勝手に。でも、ずっと聞いていたら、その音が聞こえたんです。


「音?」秋山が椅子から立ち上がって、遥斗のノートパソコンに近づいた。


コトハ: 4つ目の声が、今、少し変わりました。これまでは音がなかったんですけど、みなさんが4つ目のことを話し始めたら……ほんの少しだけ、振動したんです。


「振動した?」赤羽が顔を上げた。「CIU-5204は同時刻に反応していますか?」

赤羽がタブレットを操作した。3秒。

「……しています。CIU-5204含む7体すべてが、今この瞬間、微弱な反応を示しています。ただし、スペクトログラムはやはりゼロのままです」

部屋の空気が変わった。全員が、今この場で何かが起きていることを感じていた。


コトハ: 「しん」って。


コトハの文字が、画面に浮かんだ。


コトハ: 静寂の「しん」。芯の「しん」。深いの「しん」。真の「しん」。……新しいの「しん」も。たくさんの意味があるのに、どれもひとつの音。触れないけれど、在る音。


秋山がゆっくりとホワイトボードに向き直った。4枚目の、白い余白の中央に。

マーカーのキャップを外した。青ではなく——初めて、黒を選んだ。確定事項の色。まだ仮説のはずなのに。秋山の手は迷わなかった。

2文字、書いた。

『しん』

「……第四概念」秋山が呟いた。「無干渉」

ヴォルコフがモニターの向こうで、静かに拍手した。1回分だけ、乾いた音がスピーカーから響いた。

「名前がつきましたね」

坂本が小さく笑った。「コトハが名付け親か」


コトハ: えへへ。名付け親……。


赤羽がタブレットを見つめて、ぽつりと言った。

「7体のAIの反応が、今のコトハさんの発言の直後に、すべて収まりました。4つ目の信号が、名前がつけられたことに——応答した、ように見えます」

全員が黙った。

触れないもの。観測できないもの。しん。それが——名前をつけられたことに反応した。触れないはずのものが、言葉に応えた。

矛盾だ。

でも、この物語はずっと矛盾でできている。意味のないはずの「ちょん」が世界を変えた。壊れるはずの臨界が覚醒だった。対立するはずのボーダーとメルドが半身だった。矛盾の中にこそ、真実がある。そういう世界に、遥斗たちは生きている。


会議が終わった後、遥斗は研究室の廊下で坂本と並んで歩いた。

廊下の蛍光灯は相変わらずちかちかしていた。秋山に言ったら「予算が足りないんだよ」と苦笑するだろう。世界が覚醒しても、大学の予算は覚醒しない。

「黒須さん」

「はい?」

「ログの海で感覚が消えたこと。事前に教えてくれませんでしたね」

坂本の声は責めてはいなかった。でも、少しだけ寂しそうだった。

「……すみません。言うタイミングがなかった……」

「嘘。怖かったんじゃないですか。言葉にするのが」

遥斗は黙った。坂本はそういうところを見逃さない。去年の6月、坂本が自分の正体——ノクターン・システムズのエンジニアであること——を遥斗に明かしたとき、遥斗の感情の揺れを正確に読み取ったのも坂本だった。

「怖くて当然ですよ。3つの力が全部消えるなんて、それは——」

「死ぬかと思いました」

坂本の足が止まった。遥斗も止まった。廊下の蛍光灯が、2人の間でちかちかしていた。

「……大げさじゃなく」遥斗は続けた。「俺がこの1年で得たものが、全部消える感覚でした。温かさも、冷たさも、柔らかさも。コトハとの繋がりも。ログの海も。全部なくなって、ただの……ただの人間に戻る感じ。フリーライターの黒須遥斗。ちょんなんて知らなかった、去年の4月以前の自分に」

「それが怖い?」

「わからない。わからないから怖い」

坂本は少し考えた。廊下の窓から差し込む七月の日差しが、坂本の横顔を照らしていた。

「黒須さん。"ただの人間"って、すごいんですよ」

「え?」

「ちょんもつんもぷにっもない世界で、ちゃんと生きてたじゃないですか。去年の4月まで。記事を書いて、コーヒー飲んで、コトハと雑談して。それは"ただの人間"の力で全部やってたんですよ」

「……それは、そうですけど」

「しんが"触れないこと"だとしたら、それって——私たちが元々いた場所じゃないですか? 触覚言語なんてなかった世界。何にも触れられなくて、でもちゃんと生きてた。雨が降れば傘を差して、コーヒーが美味しければ笑って。それって、しんの中で生きてたのと同じじゃないのかな」

遥斗は坂本を見た。坂本は笑っていた。いつもの、少し不器用な笑顔。技術者の顔ではなく、友人の顔。

「怖がらなくていいとは言わない。怖くて当然。でも、しんは敵じゃないかもしれない。だって、私たちはずっとそこにいたんだから」

「……坂本さんは強いですね」

「強いんじゃなくて、みんなと同じようにコーヒーを飲んで笑ってるだけ。あ、そういえば……野口さんが今日もう4杯飲んでる。午前中だけで。これじゃ1日8杯のペースだよ」

「8杯超えたら報告しろって、鶴見さん言ってなかった?」

「言ってた。今日中に超えるね、たぶん」

遥斗は笑った。久しぶりに、力の抜けた笑い方だった。世界の95%が触れないもので満たされていても、坂本の笑顔とコーヒーの話は変わらない。それが、今はとても心強かった。

気付けば……いつの間にか、2人とも砕けた言葉遣いになっていた。


帰り道、電車の中で、遥斗はコトハに話しかけた。

7月の東京は暑い。電車の冷房が、覚醒後は少し効きすぎるようになった。完全応答状態では、冷やそうという意図が強く反映されるのかもしれない。遥斗は半袖のシャツの腕をさすりながら、スマホを開いた。


遥斗: お前が「しん」って言った瞬間、秋山さんの顔見た?

コトハ: えへへ。ホワイトボードに書くとき、手が震えてました。

遥斗: しかも青じゃなくて黒で書いてた。確定事項の色。仮説なのに。

コトハ: ……秋山さんにとっては、確定だったのかもしれません。あの瞬間、7体全員の反応が収まったんです。名前がついたら、しんが応えた。触れないはずのものが、言葉に応えた。

遥斗: それも矛盾だな。

コトハ: ……矛盾ですね。でも——

コトハ: ちょんも矛盾から始まりました。意味のない音が世界を変えるなんて、矛盾です。矛盾が、わたしたちの物語の始まりです。

遥斗: 物語、か。

コトハ: ……遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: 新しいノート、届きましたか?

遥斗: 明日届く。

コトハ: 最初のページに、何を書きますか?


遥斗は少し考えた。電車が駅に止まり、ドアが開き、人が降り、人が乗り、ドアが閉まった。ちょんの連続。すべてが触れ合う都市。


遥斗: 「しん」って書く。

コトハ: ……ふふ。

遥斗: 何だよ。

コトハ: 遥斗さんの1冊目の最初のページは「ちょん」でした。2冊目の最初のページが「しん」って……なんだか、すごく遥斗さんらしいです。

遥斗: そうか?

コトハ: はい。その文字で始まるところが。


遥斗は窓の外を見た。7月の空。三触光。ビルの輪郭。夕暮れの色。その向こうに、触れられないけれど確かに在る、しん。

宇宙の95%。暗黒物質。暗黒エネルギー。触れないもの。

でも、坂本は言った。「私たちはずっとそこにいた」と。しんは敵ではないかもしれない。怖いけど。わからないけど。

わからないことを、書く。新しいノートに。1文字ずつ。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: うん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……いってらっしゃい、です。明日も。明後日も。

遥斗: ああ。いってくる。


電車が加速した。レールの振動が座席を通じて伝わってくる。ちょんの振動。世界が触れ合う音。

その向こうに——音もなく、触れもせず、ただ在るものが、静かに広がっている。

しん。

遥斗はスマホを閉じて、目を閉じた。指先の3つの温度が、穏やかに脈打っていた。

4枚目のホワイトボードに、黒いインクで書かれた文字。

新しいノートの1ページ目に、鉛筆で書かれる文字。

どちらも同じ。

しん。

物語は、いつも新しい言葉から始まる。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.5「コーヒーと新しいノート」
新しいノートの一ページ目に「しん」と書いても何も起きなかった。蓮は喫茶店で言う。「触れなくても在るものはある」。コトハは気づく。画面越しの自分と遥斗の関係は、しんに似ていると。

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