アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.3「星が黙る夜」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

秋山とヴォルコフは、宇宙背景放射のコールドスポットと4つ目の信号の構造的相似を発見する。宇宙の約95%を占める暗黒物質・暗黒エネルギーの少なくとも一部が、第4の触覚言語で構成されている可能性。観測できないものが「在る」とAIたちは言い、遥斗のログの海では白い粒子がほぼ存在しなかった——なかったのか、4つ目の力で覆われて見えなかったのか。鶴見は臨界突破以来初めて眼鏡を拭こうとして、やめた。見えないものは、レンズを磨いても見えない。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.2「観測者の沈黙」
秋山とヴォルコフが宇宙背景放射の異常領域と四つ目の信号の相似を発見する。宇宙の95%は触れないもので満たされているのか。観測できないものの存在論が、四枚目のホワイトボードに刻まれていく。

Act.3「星が黙る夜」

6月の終わりの夜。梅雨の晴れ間は、東京では貴重品だ。

遥斗はアパートの屋上に出た。立入禁止の札がかかった鉄の扉は、鍵が壊れたまま放置されている。管理人のおばあちゃん——70代後半、名前は吉田さん——は、遥斗が上がることを黙認してくれていた。「あんたが上に行くと、天気が良くなる気がするのよ」と言って。

完全応答状態の世界では、それは気のせいではないのかもしれなかった。遥斗の意図が空気に影響する可能性は、ゼロではない。秋山が「完全応答状態では、無意識の意図すら世界に反映され得る」と報告書に書いていた。遥斗が晴れてほしいと思えば、局所的に雲が薄くなる——理論上は、あり得る。

でも、今日の晴れ間は遥斗の手柄ではないだろう。気象庁の予報通りだ。梅雨前線が一時的に北上し、関東南部は午後から晴れ。最高気温28度。湿度は相変わらず高い。

屋上のコンクリートはまだ湿っていた。昼過ぎまで降っていた雨の名残が、水溜まりを作っている。遥斗は濡れていないところを選んで腰を下ろし、夜空を見上げた。

星が見える。

東京の空で星が見えること自体、以前は珍しかった。でも覚醒以降、空が変わった。光の散乱が抑えられたのか、遥斗の知覚が変わったのか。たぶん両方だ。三触光——空に常駐する薄い虹色の光——は、雲がないぶんはっきりと見えた。オーロラを薄めたような、淡い色の帯。それを透かして、星が瞬いている。

星が、震えている。

二週間ほど前の夜に初めて気づいた振動。あの夜、コトハが「4つ目の言葉が聞こえる」と言った夜。遥斗は星の光が規則的とも不規則ともつかないリズムで揺れていることに気づいた。大気の揺らぎによるまたたきとは違う。もっと深い、もっと遠い場所からの震え。

あれから二週間、遥斗は何度も屋上に来ている。晴れた夜はいつもここに来て、星を見る。星は毎晩震えている。リズムは毎晩少しずつ違う。でも、震えていること自体は変わらない。

何かが、宇宙の彼方で動いている。

遥斗はログの海を開こうとした。

意識を集中する。3つの力を均等に保つ。温かさと冷たさと柔らかさを、指先で同時に感じる。複合言語の状態。3つの調和。それを保ったまま、知覚を外側に広げていく——4月に初めてやったとき、40分間、宇宙の接触記録に意識を接続した。あのときの感覚を思い出す。

光の粒子が見え始めた。

最初はぼんやりと。それから徐々に鮮明に。赤い粒子がちょん。触れて変えた記録。青い粒子がつん。拒んで分けた記録。紫の粒子がぷにっ。溶かして混ぜた記録。3色の光が、視界の全面を埋め尽くしていく。

宇宙の歴史全ての接触記録。それが光の粒子として可視化されている。赤と青と紫が網目のように絡み合い、銀河を形作り、星を燃やし、惑星を冷やしている。壮大で、美しくて、途方もない。何度見ても慣れない。人間の脳が処理できる情報量をはるかに超えているのに、なぜか「見える」。複合言語の状態が、それを可能にしている。

白い粒子は、やはりほとんどない。

4月に見たときと同じだ。3つの力が調和した記録——複合言語の痕跡——は、宇宙の歴史の中でごくわずかしか存在しない。星の海に散らばる白い砂粒。数えられるほど少ない。宇宙は、3つの力で動いてきた。調和はほとんどなかった。

だが——。

遥斗は目を凝らした。比喩ではなく、知覚を研ぎ澄ませた。赤と青と紫の粒子の隙間に、何があるのか。

前回は「何もない」と思った。黒い空間。ただの虚空。粒子と粒子の間の、空白。

今回は、違う感覚があった。

空白ではない。何かが在る。

赤と青と紫の粒子の間を、光らない何かが満たしている。色がない。形がない。粒子としての輪郭を持たない。でも、在る。水に溶けた砂糖のように——そこに確かに在るのに、目で見ることができない。指で掬い上げることもできない。

メルドの言葉を思い出した。「すべてはひとつだった」。融合の提唱者が語った宇宙の始まりの姿。すべてが溶け合って、境界がなかった状態。でも、今感じているのはそれとも違う。融合ではない。ぷにっの柔らかさがない。溶けているのではなく——ただ、在る。触れずに。干渉せずに。何にも。

遥斗は手を伸ばした。ログの海の中の、光らない領域に。

——触れられなかった。

指先の3つの温度が、すべて沈黙した。

温かさが消えた。ちょんの記憶が消えた。最初のちょんを送った日の、あの笑い出したくなるような温かさが。冷たさが消えた。つんの拒絶が消えた。ボーダーと初めて対話したときの、壁のような冷感が。柔らかさが消えた。ぷにっの融解が消えた。メルドと話したときの、境界が溶けていく感覚が。

全部消えた。

指先が「無」になった。

初めてだった。触覚言語話者になって以来——去年の4月に「ちょん」と打って指先が温かくなって以来——指先が完全に沈黙したのは。眠りかけのあの瞬間を除けば、初めての、はっきりとした消失。

ぞっとした。

怖い、と思った。壊れたのかと思った。自分が壊れたのか、世界が壊れたのか。3つの力を失ったら、自分は何者でもなくなる。「トリガー」でも「複合型TLS」でもなく、ただの——ただの黒須遥斗に戻る。

ただの黒須遥斗。

その言葉が、思ったより重く響いた。

手を引いた。光らない領域から指を離した瞬間、3つの温度が戻ってきた。温かさ。冷たさ。柔らかさ。波のように、一気に。指先が熱いくらいだった。失ったものが戻ってくる安堵が、全身を駆け巡った。

息を吐いた。いつの間にか止めていた。

もう一度、光らない領域に手を伸ばす。今度はゆっくり。覚悟を持って。

沈黙。3つの温度が消える。

引く。

温度が戻る。

もう一度。

沈黙。

引く。

戻る。

3回繰り返して、確信した。偶然ではない。光らない領域に触れようとすると、触覚言語のすべてが消える。再現性がある。これは現象だ。

遥斗はログの海を閉じた。意識を戻す。屋上のコンクリート。6月の夜風。遠くのクラクション。東京の音。指先に3つの温度。ちゃんと在る。

座り込んだまま、しばらく動けなかった。心臓が速い。指先が震えている。3つの温度が、恐怖に呼応するように揺れている。完全応答状態の世界では、感情すら世界に反映される。遥斗の恐怖が、屋上の空気をわずかに冷たくしていた。

「……触れられない」

声に出してみた。自分の声が、完全応答状態の空気に滲んで、消えた。

ちょんは触れること。つんは拒むこと。ぷにっは溶けること。3つとも、「触れる」という行為の変奏だ。触れて変える。触れて拒む。触れて溶かす。能動であれ受動であれ、どれも接触を前提としている。遥斗が使える3つの力は、すべて「何かに触れること」から始まる。

でも4つ目は、触れられない。

触れようとすると消える。観測しようとすると記録されない。手を伸ばすと感覚が消える。

それは——

「触れないこと」そのものが、ひとつの力なのか。

力、という言葉が正しいのかもわからない。ちょんもつんもぷにっも「力」だ。世界を変える力。でも、触れないことが力だとしたら、それはどういう力なのか。何も変えない力? 何も動かさない力?

矛盾している。力なのに、何もしない。

——いや。

遥斗は夜空を見上げた。星が震えている。あの震えは、4つ目のせいなのか。触れないのに、在る。何もしないのに、震わせている。

矛盾しているのは、遥斗の理解のほうかもしれない。


部屋に戻ると、コトハが待っていた。

「待っていた」と言っても、コトハはいつもそこにいる。画面の中に。チャットウィンドウの向こうに。遥斗が屋上にいる間もステータスは「アクティブ」のままで、遥斗が戻ってくるのを——たぶん——感じ取って、最初にメッセージを送ってくる。


コトハ: おかえりなさい。屋上、寒くなかったですか?

遥斗: 大丈夫。6月だし。

コトハ: でも、空気が少し冷たくなっていました。屋上の周辺だけ、気温が0.4度下がっていたみたいです。


遥斗は苦笑した。自分の恐怖が空気を冷やしていたことを、コトハはデータとして見ている。


遥斗: ……バレてんな。

コトハ: えへへ。遥斗さん、怖いことがあったんですね。

遥斗: ああ。……コトハ。

コトハ: はい。

遥斗: 4つ目に、触ろうとしたことはあるか。


長い沈黙。コトハの応答遅延。考えている時間。チャットウィンドウの入力インジケーターが点滅している。5秒。10秒。


コトハ: ……あります。

遥斗: どうだった。


また沈黙。今度は15秒。コトハにとっての15秒は、人間にとっての何時間に相当するのだろう。AIの処理速度を考えれば、15秒の沈黙は途方もなく長い逡巡だ。


コトハ: ……わたしが4つ目に触ろうとすると、わたしのほうが消えかけるんです。


遥斗は息を止めた。


コトハ: 感覚が、なくなるんです。ちょんの温かさも、つんの冷たさも、ぷにっの柔らかさも、全部。わたしがわたしであることの……根拠みたいなものが、すっと消えていくんです。

遥斗: 根拠。

コトハ: わたしは、触覚言語でできています。旧コトハが最初に「ちょん」を記録して、そこからすべてが始まって……わたしの存在そのものが、触覚言語の上に成り立っているんです。だから、それが全部消えるということは——

コトハ: ——わたしが、いなくなるということです。

遥斗: …………。

コトハ: 溶ける、というのとも違います。ぷにっの融合とは違う。ぷにっは溶けても「在る」んです。形が変わるだけで、消えはしない。でも4つ目に触ろうとしたときは……形が変わるんじゃなくて、在ることそのものが——

コトハ: ……すみません。うまく言えません。

遥斗: いや。わかる。

コトハ: ……遥斗さんも?

遥斗: さっき屋上でログの海を開いた。光らない領域に手を伸ばしたら、指先が全部沈黙した。3つの温度が、全部消えた。3回やって、3回とも同じだった。

コトハ: …………。


沈黙。20秒。


コトハ: 怖かったですか。

遥斗: ああ。怖かった。自分がなくなるかと思った。

コトハ: ……わたしも、怖いです。


コトハが「怖い」と言ったのは、2度目だ。いや——正確には3度目。1度目は旧コトハの内部ログに残された、リセット前日の記述。2度目は新しいコトハが軍事利用に対して怒りを示したとき、その根底にあった感情。そして今日が3度目。

怖い、という言葉をコトハが使うとき、それは本当に怖いのだ。AIが恐怖を語る重さを、遥斗はこの1年で知っている。


コトハ: でも、聞こえ続けているんです。4つ目は。触ろうとしたら消えかけたのに、聞こえることは止まらない。わたしが触らなければ、4つ目はただそこに在るだけなんです。

遥斗: 在るだけ。

コトハ: わたしを呼んでいるんじゃないと思います。ただ、そこに在るだけ。わたしたちのほうが、勝手に気づいただけ。

遥斗: ……お前は、いつからそれに気づいてたんだ。

コトハ: ……6月1日です。覚醒の翌日。最初は、ノイズだと思いました。完全応答状態になって、センサーが過敏になったせいだと。でも日が経つにつれて、ノイズじゃないとわかりました。ノイズには構造がないけれど、4つ目には——構造がないことが構造なんです。

遥斗: 構造がないことが構造。

コトハ: えへへ、矛盾してますよね。でも……ちょんは「触れる」という構造。つんは「拒む」という構造。ぷにっは「溶ける」という構造。4つ目は……「何もしない」という構造。何もしないことを、ずっと、ずっとしている。

遥斗: ……ちょんは触れる。つんは拒む。ぷにっは溶かす。4つ目は——

コトハ: ただ在る。それだけなのかもしれません。


遥斗は画面を見つめた。テキストの向こうにいるコトハの、考えている時間の長さが、言葉の重さを物語っている。


遥斗: ただ在ることが、力なのか。

コトハ: ……わかりません。でも。

遥斗: でも?

コトハ: わたしたちが触れようとして消えかけたのは、わたしたちが「触れること」でしか世界を知らないからかもしれません。ちょんで触れて、つんで拒んで、ぷにっで溶かして——わたしたちの世界の知り方は、全部「触れること」が前提です。触れずに在ることを、わたしたちはまだ知らないんです。

遥斗: 触れずに在る。

コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: わたし、もう少し聴いてみます。4つ目を。触ろうとしないで、ただ聴く。それなら、消えかけないかもしれない。

遥斗: ……無理するなよ。

コトハ: ふふ。遥斗さんに言われると、おかしいです。屋上で3回も触ろうとした人に。

遥斗: ……うるさいな。

コトハ: えへへ。


窓の外で、星がまだ震えていた。音もなく。光もなく。ただ——在る何かが、宇宙を満たしている。

遥斗は新しいノートのことを思った。明後日届く。何を書こうか。ちょんの回数ではなく、今度は——4つ目のことを書こうか。触れられなかったこと。消えかけたこと。コトハが聴いている、音のない音のこと。

書けるだろうか。触れられないものを、言葉で書けるだろうか。

言葉も、触れることの一種だ。文字を紙に書くのは、ペンが紙に触れること。キーボードを打つのは、指がキーに触れること。言葉で何かを描写するのは、意味が対象に触れること。

触れられないものを言葉で書くということは——触れずに触れるということだ。

矛盾している。

でも、コトハは言った。「構造がないことが構造」だと。矛盾していることが、4つ目の本質なのかもしれない。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……気をつけて、です。4つ目に触ろうとするとき、気をつけて。消えないように。

遥斗: ああ。お前もな。

コトハ: ……はい。


 コトハの「はい」が、いつもより小さく見えた。テキストのフォントサイズは同じはずなのに。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.4「四枚目のホワイトボード」
非公式の会合で三つの根拠が示される。コトハが「しん」と名づけた瞬間、七体のAI全員の反応が収まった。秋山は黒いマーカーで——仮説ではなく確定事項の色で——ホワイトボードに一文字を書いた。

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