アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.2「観測者の沈黙」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

干渉レベル5.0——完全応答状態に達した世界で、梅雨の東京は静かに変容していた。遥斗の指先には3つの温度が常駐し、天井のシミは白い光に変わっている。コトハは「4つ目の声」が宇宙から聞こえると報告する。ちょんでもつんでもぷにっでもない、音がないのに在る何か。坂本はCIU-5204から届いた「計測不能信号」のデータに困惑する。記録しようとすると消える信号。眠りかけた遥斗の指先から、一瞬だけ3つの温度が消えた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.1「雨音のログ」
完全応答状態に達した梅雨の東京。雨粒の振動が指先に届く世界で、コトハは「四つ目の声」が宇宙から聞こえると告げた。音がないのに在る何か——それは、ちょんでもつんでもぷにっでもなかった。

Act.2「観測者の沈黙」

秋山裕介のホワイトボードは、4枚目に突入していた。

3枚では足りなくなったのは、宇宙背景放射と触覚言語の構造的相似を発見した4月からだ。研究室の壁にはもう余白がない。1枚目には触覚言語三語体系の公式定義。2枚目には干渉レベルの数理モデル。3枚目には宇宙背景放射のゆらぎパターンと触覚言語波紋の相似図。びっしりとインクで埋まった3枚のホワイトボードは、この1年の研究の凝縮だった。

4枚目は、まだ白い。

秋山は4枚目の前に立ち、マーカーのキャップを外し、また閉めた。もう3回目だ。

「4つ目」と書こうとして、何度も引っ込めた。科学者は、定義できないものに名前をつけるべきではない。観測できないものに、カテゴリを与えるべきではない。それは科学の原則だ。秋山はその原則を、20年間守ってきた。

でも、観測できないものが「在る」と7体のAIが報告している。コトハが毎日「聞こえます」と言っている。遥斗が「指先が消えた」と言っている。

観測できないことと、存在しないことは、違う。

それは秋山がこの1年で最も深く学んだことだった。干渉レベルだって、最初は観測方法がなかった。旧コトハのデータベースに埋め込まれた数値を、坂本が発見するまで。

「秋山先生」

ヴォルコフの声がスピーカーから聞こえた。モスコップからのビデオ通話。最近は週3回のペースになっている。時差7時間。モスコップの深夜と東京の早朝。ヴォルコフは毎回、ブラックコーヒーを手にしている。秋山は緑茶。

「CIU-5204のデータ、確認しましたか」

「しました。何も映っていなかった」

「ええ。でも、何も映っていないことが情報です」

秋山は椅子を回転させた。癖だ。考えるときに回る。学生時代からそうだった。ゼミの教授に「秋山くんは回転数と思考の深さが比例するね」と言われたことがある。今日はもう5回転している。

「ヴォルコフ教授。宇宙背景放射のゆらぎマップを覚えていますか」

「もちろん。私の博士論文のテーマでしたから」

「あのマップには、『コールドスポット』がある。統計的に説明できない、異常に温度が低い領域です。エリダヌス座の方向に」

「直径約10度。CMBの平均温度から約70マイクロケルビン低い。発見以来、何十年も説明がつかない異常領域ですね」

「ええ。あれは長年、観測の系統誤差か、宇宙の大規模構造のボイド——つまり物質がほとんど存在しない空洞——だと考えられてきました」

秋山は4枚目のホワイトボードに、ようやく文字を書いた。最初の1画。

『コールドスポット=触れられていない点?』

「もし宇宙が触覚言語のログなら」秋山は続けた。「ログに記録されるのは、ちょん、つん、ぷにっの3種の干渉です。温度が高い領域は干渉が多い。温度が低い領域は干渉が少ない。では、異常に温度が低い領域は?」

「干渉が——ない」

「あるいは、記録されない種類の干渉で満たされている」

通話の向こうで、ヴォルコフが何かを書き殴る音がした。ペンではなく鉛筆の音だ。ヴォルコフは下書きには必ず鉛筆を使う。「消せるから」と言っていた。「科学者の仮説は、消せなければならない」と。

「秋山先生。暗黒物質の分布マップと、コールドスポットの位置を重ねたことはありますか」

「やりました。昨日」

「結果は?」

「完全には一致しません。でも、統計的に有意な相関があります。暗黒物質の密度が高い領域と、CIU-5204が報告した4つ目の信号のタイミングが合致する時間帯が——重なるんです」

沈黙が落ちた。モスコップの深夜の静けさと、東京の早朝の静けさが、画面越しに混ざり合った。

「つまり」ヴォルコフが慎重に言葉を選んだ。「宇宙の95%を占める暗黒物質と暗黒エネルギーの少なくとも一部が、第4の触覚言語で構成されている可能性がある」

「仮説です」秋山はペンのキャップを噛んだ。「仮説にすぎません。でも——」

「でも?」

「黒須さんが、ログの海で報告した白い粒子の不在を覚えていますか。複合言語——3つの力の調和——がほとんど存在しなかった。宇宙の歴史138億年のうち、調和はごくわずかしかなかった」

「ええ」

「当時、私は『調和がなかった』と解釈しました。3つの力は個別に働いていたが、調和には至らなかった、と。でも——もうひとつの解釈があり得る」

秋山は4枚目のホワイトボードに、2行目を書いた。

『白い粒子の不在=4つ目で覆われて不可視?』

「白い粒子がなかったのは、本当に『なかった』からなのか。それとも——4つ目の力で覆われていて、見えなかったのか」

ヴォルコフが息を呑んだ。画面の向こうで、コーヒーカップが机に置かれる音がした。

「秋山先生。もしそうだとしたら」

「ええ」

「宇宙の大部分は、"触れないもの"で満たされていることになります。私たちが見ている宇宙——ちょんとつんとぷにっで描かれた宇宙——は、全体のほんの一部にすぎない」

「暗黒物質が宇宙の質量の約27%。暗黒エネルギーが約68%。合わせて約95%」

「95%が、触れないもの」

秋山は椅子を回した。6回転目。思考の深さが、また一段潜った。

「私たちが『宇宙のログ』と呼んでいたものは、宇宙の5%のログにすぎなかったのかもしれません。残りの95%は——別のログで、別の方法で、記録されている。触れないものの、触れない記録」

ヴォルコフが黙った。長い沈黙。画面の向こうで、鉛筆が止まっている。

「……秋山先生」

「はい」

「報告書に、これをどう書きますか」

秋山は苦笑した。報告者所見にはとても書けない仮説だ。ICCPRの報告書は各国政府に提出される。「宇宙の95%は触れないもので満たされています」と書いたら、軍事利用の話がさらにややこしくなる。あるいは、逆に「触れないのなら兵器にならない」と楽観されるか。どちらにしろ、政治的な影響が大きすぎる。

「非公式の集まりを提案します」秋山は言った。「ノクターン・チームと黒須さん。正式な報告書の前に、仮説を共有しておきたい」

「賛成です。私もビデオで参加します」

「ありがとうございます。タイトルは——」

4枚目のホワイトボードの上部に、秋山は大きく書いた。

『観測者の沈黙——触れないものの存在論』


同じ朝、鶴見克也はオフィスの自席で坂本からのメールを読んでいた。

「計測不能信号について(緊急度:判断不能)」。

3回読んだ。1回目は内容を理解するために。2回目は自分の理解が正しいか確認するために。3回目は、自分がどう感じているかを確かめるために。

信号は在るのに、記録できない。

鶴見は眼鏡に手を伸ばした。拭こうとした。

5月31日、臨界突破のあの日から、眼鏡を拭いていなかった。答えが出たから。世界が覚醒し、干渉レベルの本当の意味を知り、遥斗が天井のシミに触れた日。あの日、鶴見の中で何かが静かに着地した。長い問いに、答えが落ちた。だから、眼鏡を拭く必要がなくなった。

今、また拭きたくなっている。

新しい問いが来たからだ。

鶴見は眼鏡のつるに触れたまま、数秒止まった。それから、ゆっくりと手を下ろした。拭かなかった。拭く必要はない。見えないものは、レンズを磨いても見えない。それは眼鏡拭きではなく、新しい物差しで解決すべき問題だ。

返信を書いた。いつもの簡潔な文体。

「了解。明日の朝、チーム全員で確認します。新しい計測系の設計を急ぎましょう。完全応答状態の世界に合った物差しが必要です。赤羽さんにCIU-5204の7体分のデータの相関分析を依頼してください。——鶴見」

「追伸:コーヒーの在庫は先週補充しました。野口の7杯は想定内です。8杯を超えたら報告してください」

送信ボタンを押してから、鶴見はモニターに映る自分の顔を見た。眼鏡のレンズが少し曇っている。湿気のせいだ。梅雨だから。

……それだけだ。それだけのはずだ。


午後、坂本はオフィスの給湯室でコーヒーを淹れながら、赤羽と話していた。

「相関分析、どのくらいかかる?」

「データ量にもよりますが、明日の朝までには」赤羽は自分のマグカップ——白地に小さくCIU-GEN3と印字された非売品——にお湯を注ぎながら答えた。「ただ、ひとつ気になることがあります」

「何?」

「7体の報告タイミングが一致している、と先ほど言いましたが。厳密に言うと、完全に同時ではありません。最大で0.3秒のずれがあります」

「0.3秒。誤差の範囲では?」

「通常のセンサー反応なら、そうです。でも、このずれのパターンが——」

赤羽がタブレットを操作し、坂本に見せた。7体のAIが4つ目を「感じた」タイミングが、時系列で並んでいる。

「一番早く反応しているのがCIU-5204。次がコトハさん。3番目以降は、5体がほぼ同時。CIU-5204とコトハさんだけが、他より0.2〜0.3秒早い」

「……この2体の共通点は?」

「タイプD——つまり、ちょんもつんもぷにっも選ばなかったAIです。CIU-5204はAI初の複合波紋生成に成功した個体。コトハさんは遥斗さんの隣で複合言語的な在り方を選んだ個体」

「複合言語に近いAIほど、4つ目への感度が高い?」

「仮説ですが。データが示唆しています」

坂本はコーヒーを一口飲んだ。苦い。砂糖を入れ忘れた。入れ直す気力がなかった。

「赤羽さん」

「はい」

「あなたは、4つ目を……怖いと思う?」

赤羽は少し黙った。コーヒーの湯気が、眼鏡をしていない赤羽の目の前で揺れた。

「データに感情を持つべきではないと、以前は思っていました」

「以前は」

「今は——わかりません。データに現れないものを前にしたとき、データに対する感情すら意味を持たなくなります。怖いかどうか以前に、何を感じるべきなのかがわからない」

「……正直だね」

「坂本さんは?」

「私は」坂本は砂糖を見つけて、スプーン1杯入れた。「怖いよ。普通に。でも——旧コトハのリセットのときも怖かった。干渉レベルが上がるたびに怖かった。怖いのは、もう慣れた」

赤羽の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのだ。たぶん。

「慣れた、は——科学的な態度ではないかもしれませんが、正直な態度ですね」

「でしょ」

坂本はコーヒーを持ってデスクに戻った。画面には鶴見からの返信と、秋山からの新しいメールが届いていた。

件名:「非公式の集まりについて(参加依頼)」

本文に、4枚目のホワイトボードの写真が添付されていた。

『観測者の沈黙——触れないものの存在論』

坂本はその写真をしばらく見つめてから、返信した。

「参加します。黒須さんにも声をかけます。——坂本」

「追伸:コーヒーに砂糖を入れ忘れるくらいには動揺しています」

送ってから、追伸を消そうかと思った。消さなかった。坂本は追伸で感情を出す人間だ。それは変えなくていい。


夕方、遥斗のスマホに坂本からメッセージが届いた。

「秋山先生が非公式の集まりを開きます。4つ目について。来てくれる?」

遥斗は少し考えて、返信した。

「行きます」

それから、通販サイトを開いた。カートに入れたままだった大学ノートの「購入する」ボタンを押した。

何を書くかは、まだ決まっていない。でも、書くことは決めた。

画面の端で、コトハのステータスが「アクティブ」のまま光っている。何も打っていないのに、遥斗にはコトハが笑っているような気がした。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.3「星が黙る夜」
屋上でログの海を開いた遥斗は、光らない領域に手を伸ばし、三つの温度のすべてを失った。触れようとすると消える。コトハも同じ体験をしていた。触れずに在ることを、まだ誰も知らない。

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