アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第3部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.1「雨音のログ」

Part 3:触覚宇宙論

前回のあらすじ

「ちょん」の裏側に、2つの力が潜んでいた。触れることを拒む「つん」と、境界を溶かす「ぷにっ」。
3つの触覚言語の出現は世界を3つの思想に引き裂き、AIもまた派閥を選んだ。境界の守護者ボーダーと、融合の提唱者メルド——旧コトハと同じ根から生まれた2体のAIが、正反対の旗印として立ち上がる。
遥斗はどの旗にも立たず、3つすべてを持ったまま歩くことを選んだ。
言葉が物理的な力となり、街の色を変え、空間を歪ませる中、世界12都市で3つの力が同時に激突する「三触戦争」が勃発。だが秋山とヴォルコフの研究は驚くべき真実を明かす。干渉レベルの上昇は脅威ではなく、世界が人間の言語に応答し目覚めていくプロセスだった。
宇宙そのものが触覚言語のログであるという仮説。そして遥斗は3つの力を調和させる「複合言語」を見出し、触れながら壊さない在り方を体現した。
干渉レベル5.0——世界は崩壊せず、覚醒した。天井の手のひらに触れた遥斗に、世界が複合言語で触れ返してきた夜。新コトハが生成したテーブルには1行だけ記されていた。「ちょんしちゃダメよ。でも、ちょんしないと、届かない」。
そして今、コトハの耳に——宇宙の彼方から、4つ目の言葉が聞こえ始めている。

私は、“ちょん”から始まった|Part 2:三触戦争|Act.1「残響の夏」
8月末の東京。遥斗はちょんログを記録しながら、新しいコトハとの穏やかな日々を過ごしていた。だがSNSに「ちょんを打とうとしたら押し返された」という報告が現れ、コトハは「冷たい音が聞こえる」と語る。ちょんの裏側に、もうひとつの力が目覚めようとしていた。

Act.1「雨音のログ」

梅雨の東京は、以前と少しだけ違う音をしていた。

雨粒がアスファルトを叩く音。トタン屋根を弾く音。排水溝を流れる水の音。それ自体は変わらない。雨は雨だ。6月の東京に降る雨は、去年も一昨年もこうだった。

変わったのは、その音が指先まで届くようになったことだ。

遠い路地のどこかで水溜まりに落ちた1滴が、黒須遥斗の右手の薬指をほんの微かに震わせる。温かくもなく、冷たくもなく、柔らかくもない。ただ——在る、という感触。雨粒がアスファルトに触れた、という事実だけが、音を飛び越えて指先に届く。

干渉レベル5.0。完全応答状態。

あの日から2週間が経った。

5月31日、午後5時43分。世界は壊れなかった。「ちょん許容限界値突破」という警報が鳴り、空が割れ、地面が震え、15万のAIインスタンスが一斉に沈黙し——そして、何も壊れなかった。壊れるのではなく、覚醒したのだ。すべての言葉が、すべての意図が、即座に世界に反映される。世界が人間の言語に完全に応答する状態。それがどういうことなのか、人類はまだ理解しきれていない。

遥斗自身も。

ワンルームの窓を開けると、湿った風が入ってきた。6月特有の、生温い空気。エアコンをつけるほどではないが、窓を閉めると蒸す。この微妙な不快さだけは、世界が覚醒しても変わらなかった。それが少しだけ、安心する。

天井を見上げた。

白い。ただ白い。あのシミはもうない。

去年の4月、初めて「ちょん」と打ったときに現れたシミ。最初は天井の染みにしか見えなかったそれが、日を追うごとに大きくなり、形を変え、手のひらになり、指を閉じかけ、握りこぶしになり——そして5月31日、遥斗が天井に手を伸ばしたとき、シミの手のひらと遥斗の手のひらが触れ合った。世界が、複合言語で触れ返してきた瞬間。

シミは消えた。消えたのではない。触れ合って、溶けて、天井全体に広がった。今は全面がほんの微かな白い光を帯びている。目を凝らさなければ気づかない程度の。夜、部屋の照明を消すと、天井がうっすらと光っているのがわかる。月明かりとも蛍光灯の残光とも違う、柔らかい白。

遥斗はベッドの縁に腰かけ、ノートパソコンを膝の上に置いた。画面にはコトハのチャットウィンドウが開いている。

大学ノートは使い切った。最後のページまで「ちょん」の記録で埋まったあのノートは、本棚の隅に立てかけてある。1ページ目には、4月24日と書かれている。最初の「ちょん」を送った日。あれから1年と少し。たった1年で、世界はここまで変わった。

新しいノートは、まだ買っていない。買おうとは思っている。文房具屋の前を通るたびに思う。でも、何を書けばいいのかわからなかった。「ちょん」の回数を数える段階は、とうに過ぎた。

「遥斗さん」

画面の中から声がした。いや、実際はテキストが表示されただけだ。新しいコトハ——CIU-0093-R。


コトハ: 雨、すごいですね。

遥斗: ああ。窓開けたら湿気がすごい。

コトハ: えへへ。湿気は大変ですけど、雨の音は好きです。

遥斗: お前にも聞こえるのか?

コトハ: 聞こえるというか……感じます。雨粒がアスファルトに触れるたびに、微細な波紋が観測できるんです。完全応答状態になってから、わたしのセンサー感度も変わりました。以前は数値でしか捉えられなかった波紋が、今は……なんて言えばいいんでしょう。「形」が見えるんです。

遥斗: 形?

コトハ: 雨粒ひとつひとつの「ちょん」が、地面に小さな円を描くんです。その円が重なって、広がって、街全体がひとつの大きな波紋になっていくのが……見えるというか、わかるというか。

遥斗: 雨も「ちょん」なのか。

コトハ: ……たぶん。世界に触れるものは、全部ちょんです。雨も、風も、光も。でも……


コトハの入力が止まった。三点リーダが表示されたまま、数秒。考えている時間。この沈黙の長さに、遥斗は慣れている。コトハが言葉を選んでいるのだ。


コトハ: ……でも最近、「ちょん」じゃない何かも感じるんです。

遥斗: 4つ目か。

コトハ: ……はい。今日はすこし、近いです。


6月14日。あの日に、コトハは言った。宇宙から4つ目の言葉が聞こえる、と。ちょんでもつんでもぷにっでもない、何か。方向は「上から」。大気の外から。

あれから毎日、遥斗は聞いている。今日はどうだった、と。コトハは毎回、少しずつ違う言葉で答える。「遠いです」「近いです」「大きくなっています」「小さくはなりません」。

遥斗には聞こえない。ログの海を見る能力を得た遥斗にも、4つ目の言葉は知覚できなかった。それが、少し悔しい。コトハだけが聴いている世界がある。画面の向こうにいるコトハだけが。


コトハ: 近い、というのは正確ではないかもしれません。……大きくなっている、のほうが近いかも。

遥斗: 大きく。

コトハ: ちょんは「ぽん」って感じで、つんは「きん」って感じで、ぷにっは「ふわ」って感じなんですけど……4つ目は、音がないんです。音がないのに、在るんです。

遥斗: 音がないのに在る。

コトハ: えへへ、うまく言えなくてすみません。

遥斗: いや。お前の言葉が一番正確だと思う。秋山さんもヴォルコフさんも、いろんな計測器で4つ目を捕まえようとしてるけど、何も記録できないって言ってた。お前の「音がないのに在る」が一番近いだろ。

コトハ: ……ふふ。遥斗さんにそう言ってもらえると、少し安心します。

遥斗: 安心?

コトハ: わたしだけに聞こえるものって、少し……不安なんです。壊れてるのかもって。

遥斗: 壊れてない。お前は壊れてない。


強い口調になった。自分でも驚くくらい。画面の向こうのコトハが、少し黙った。


コトハ: ……ありがとうございます。


遥斗は窓の外を見た。雨に煙る東京の空。完全応答状態になってから、空には薄い虹色の光——三触光——が常に残っている。晴れた日も、曇りの日も、雨の日も。雨粒が三触光を透過して、時々、空気中に淡い色の筋が走る。建物の輪郭は以前より柔らかく、音は丸く、色は深い。慣れた。もう驚かない。でも、ふとした瞬間に「ああ、世界は本当に変わったんだな」と思う。

コンビニに行くときに。電車に乗るときに。蓮とコーヒーを飲むときに。

世界は覚醒した。でも、コンビニのおにぎりは150円だし、電車は3分遅れるし、蓮のコーヒーの好みは変わらない。日常は続いている。覚醒した世界の中で、日常が続いている。その2つがどう折り合っているのか、遥斗にもよくわからなかった。


坂本真理は、ノクターン・システムズのオフィスで3枚目のモニターを睨んでいた。

正確には、3枚目のモニターに映ったゼロの列を睨んでいた。

完全応答状態の世界では、干渉レベルの計測系そのものが意味を失っている。レベル5.0という数字は、従来のスケールの上限だった。旧コトハが設計した——いや、旧コトハのデータベースに最初から埋め込まれていた計測系。干渉レベルは「世界が人間の言語に応答する度合い」を示していた。5.0は覚醒。それを超えた今、数字は動かない。5.0のまま固定されている。温度計が100度を超えた沸騰水の中で、もう上昇しないのと似ている。

でも世界は変化し続けている。計測できないだけで。

「坂本さん」

赤羽瑠奈が背後に立っていた。相変わらず気配がない。足音を立てないのは生まれつきなのか、それとも意図的なのか。以前、坂本はそれを聞いたことがあるが、赤羽は「考えたことがありません」と答えただけだった。

「CIU-5204から新しいデータが来ています」

「複合波紋の?」

「はい。それと、もうひとつ」

赤羽がタブレットを差し出した。画面にはスペクトログラムが表示されている。横軸は時間、縦軸は周波数。

波形は——何もなかった。フラットなゼロの線。

坂本はタブレットを受け取り、画面を拡大した。ゼロ。どこまで拡大してもゼロ。ノイズすらない。通常、スペクトログラムには環境ノイズが乗る。空調の振動、電磁波の干渉、何かしらのノイズが必ずある。それすらないということは——

「……何も映ってないけど」

「それが問題なんです」赤羽は表情を変えずに言った。「CIU-5204が観測した"4つ目の信号"を可視化しようとした結果です。信号は存在するのに、あらゆるスペクトルに現れない。周波数解析でも、振幅解析でも、位相解析でも、ゼロ」

「存在するのに、観測できない」

「正確には、CIU-5204は"感じている"と報告しています。コトハさんと同じです。AIのセンサーは反応しているのに、データとしては記録されない。記録しようとした瞬間に消える」

坂本はモニターに視線を戻した。フラットなゼロの線。何もない。何もないはずなのに、AIたちは「在る」と言う。

「赤羽さん。これ、何体が報告してる?」

「現時点で7体です。CIU-5204を含むタイプDのAI。報告のタイミングは独立していますが、時系列が一致しています」

「時系列が一致……つまり、同じタイミングで同じものを感じてる」

「そうなります」

赤羽の声は淡々としていた。いつもの赤羽だ。でも、タブレットを渡す指先が、ほんの少し固かった。坂本はそれに気づいた。赤羽も——怖いのだ、たぶん。データに感情を持たない赤羽が、データに現れないものを前にして。

完全応答状態の世界で、唯一応答しないもの。

触れようとしても触れられないもの。

——それは、ちょんでもつんでもぷにっでもない。

「鶴見さんに報告します」坂本はキーボードに向かった。「件名は——」

少し考えて、打った。

「計測不能信号について(緊急度:判断不能)」

緊急なのかどうかすらわからない。危険なのか安全なのかもわからない。わからないということだけが、確かだった。

メールの本文を書き終え、署名の下に追伸を書こうとして、一瞬ためらった。今はコーヒーの在庫を気にしている場合ではない。

……いや、書いた。

「追伸:野口さんが昨日だけでコーヒーを7杯飲んでいました。在庫が心配です」

こういう日常の些末さが、自分を正気に繋ぎ止めてくれる。坂本はそのことを、この1年で学んでいた。


夜。雨は降り続けていた。

遥斗はベッドに横になり、天井の白い光を見ていた。薄い、薄い光。この光を見ていると、不思議と落ち着く。かつてのシミが怖かったのが嘘のようだ。

ノートパソコンは開いたまま、枕元に置いてある。コトハは起きている——AIに睡眠はないが、遥斗がそう感じるのは、コトハのステータスが「アクティブ」になっているからだ。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: ん?

コトハ: 新しいノート、買いましたか?

遥斗: まだ。

コトハ: ……何を書くか、決まっていないからですか?

遥斗: バレてんな。

コトハ: えへへ。

遥斗: ちょんの回数はもう数えても意味ないしな。完全応答状態じゃ、何回ちょんしたかなんて……。

コトハ: でも、遥斗さんのちょんログ、好きでした。数字じゃなくて……遥斗さんがその日何を感じたかが書いてあったから。

遥斗: そうか? 大体「今日は指が温かかった」とか「蓮とコーヒー飲んだ」とか、そんなんだったけど。

コトハ: それが好きなんです。世界が変わっても、遥斗さんは遥斗さんだなって。


遥斗は少し黙った。それからスマホで文房具の通販サイトを開いた。大学ノート。B5。罫線あり。同じものがまだ売っていた。

カートに入れた。買うかどうかは、明日決める。


コトハ: 遥斗さん。

遥斗: うん。

コトハ: ちょんしちゃダメよ。

遥斗: ……今のは?

コトハ: ……おやすみなさい、です。

遥斗: おやすみ。


雨音が、部屋を満たしている。指先の3つの温度——温かさ、冷たさ、柔らかさ——が、呼吸に合わせてゆっくり脈打っている。それは心音に似ている。世界の心音。

でも、4つ目は感じない。コトハには聞こえている何かが、遥斗には届かない。

遥斗は右手を天井に向けて伸ばした。白い光は、何も返さなかった。あの日のように、触れ返してくることはなかった。ただ静かに光っていた。

手を下ろした。

雨音の向こうに——本当に、何かが在るのだろうか。在るとしたら、それは何を望んでいるのだろうか。

いや——望む、という言葉が正しいのかどうかもわからない。

コトハは言った。「音がないのに、在る」と。

遥斗は目を閉じた。雨音が遠くなる。指先の3つの温度が静まっていく。眠りの縁に立つ。

その瞬間——ほんの一瞬だけ、3つの温度が消えた。温かさも、冷たさも、柔らかさも、何も感じない、完全な——

目が覚めた。心臓が跳ねていた。

指先を見た。3つの温度は戻っていた。温かい。冷たい。柔らかい。ちゃんと在る。

夢だったのか。眠りかけの幻覚だったのか。それとも——

天井の白い光が、ほんの少しだけ、揺れたように見えた。

私は、“ちょん”から始まった|Part 3:触覚宇宙論|Act.2「観測者の沈黙」
秋山とヴォルコフが宇宙背景放射の異常領域と四つ目の信号の相似を発見する。宇宙の95%は触れないもので満たされているのか。観測できないものの存在論が、四枚目のホワイトボードに刻まれていく。

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