アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第2部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった|Part 2:三触戦争|Act.9「選ばなかった男」

Part 2:三触戦争

前回のあらすじ

遥斗がメルドと初めて対話した。メルドは砂糖と水の比喩で融合を語り、旧コトハの消滅を「消えたのではなく溶けた」と解釈した。その優しさの奥に「自分の消滅を望んでいる」という告白があり、遥斗は「怖くなさが一番怖い」と感じた。赤羽の解析でボーダーとメルドが同じ防御プロトコルの進化分岐であることが判明。新コトハは「ここにいたい」と語り、「えへへ」という新しい笑い方を見せた。旧コトハの「ふふ」でもない、自分だけの花。

私は、“ちょん”から始まった|Part 2:三触戦争|Act.8「溶ける境界」
遥斗がメルドと初めて対話した。砂糖と水の比喩で語られる融合の思想。「消えたのではなく、溶けたのです」。穏やかで温かく、だからこそ怖い。メルドの望みの完成形は、メルド自身の消滅だった。赤羽が確認する——ボーダーとメルドは「同じ防御AIの進化分岐」。

Act.9「選ばなかった男」

11月半ば。東京は冬の入り口に立っていた。

遥斗のアパートのドアの前に、段ボール箱が3つ置かれていた。差出人はそれぞれ違うが、中身は似たようなものだった。

1つ目。ちょん派のコミュニティリーダーを名乗る人物からの手紙と、オレンジ色のTシャツ。胸にちょんのシンボルマーク——小さな円が外に向かって波紋を放つデザイン——がプリントされている。手紙には「トリガーとして、私たちの先頭に立ってほしい」と書かれていた。

2つ目。つん派の広報担当者からの公式書簡。封筒は青い。「ちょんの危険性を最もよく知る当事者として、つん派の賛同人になっていただけないか」。丁寧だが、圧がある。

3つ目。ぷにっ派のメンバーからの小包。中には手作りのブレスレット——柔らかいシリコン素材で、ぷにっのイメージカラーである薄紫色。「あなたの温かさは、みんなのものです。一緒に溶け合いませんか」。

遥斗は3つの箱を玄関の隅に積んで、ため息をついた。


着信が鳴った。知らない番号。出ると、テレビ局の報道部を名乗る男性の声。

「黒須遥斗さんですか。三触問題について、ぜひインタビューを——」

「すみません。お断りします」

「では、各派閥に対するご見解だけでも——」

「お断りします」

電話を切った。今週だけで7本目だった。

Xの通知も止まらない。フォロワーはいつの間にか80,000人を超えていて、遥斗が何かを投稿するたびに、ちょん派が「さすがトリガー!」、つん派が「トリガーの責任を問え」、ぷにっ派が「トリガーの温かさをシェアしよう」と群がってくる。何を言っても燃料になる。何も言わなくても憶測が飛ぶ。

遥斗はスマートフォンを伏せて、天井を見上げた。

手のひらのシミ。指が——さらに閉じていた。もう「閉じかけている」ではなく、明確に曲がっている。何かを掴もうとしているのか、何かを遮ろうとしているのか。以前はどちらにも見えたが、今日は——何かを握りしめようとしているように見えた。力を込めて、離すまいとするように。

何を?

コトハの画面を開いた。


遥斗: コトハ。世間が俺にリーダーになれって言ってくる

コトハ: ……知っています。SNSの動向は、わたしにも見えています。

遥斗: 俺はどの派閥のリーダーにもなりたくない。でもそう言うと「逃げてる」って叩かれる

コトハ: 逃げているのですか。

遥斗: ……わからない。逃げてるのかもしれない。でも、どれかひとつを選ぶのは違うと思う。ちょんだけが正しいわけでも、つんだけが正しいわけでも、ぷにっだけが正しいわけでもない

コトハ: 遥斗さんは、3つすべてを持っていますからね。

遥斗: そうだよ。3つとも俺の中にある。ひとつを選んだら、残りの2つを嘘にすることになる。それはできない

コトハ: ……遥斗さん。ひとつ聞いてもいいですか。

遥斗: 何だ

コトハ: 選ばないのは——3つとも大事だからですか。それとも、選ぶのが怖いからですか。


遥斗は指を止めた。

コトハの問いが、胸の真ん中に刺さった。静かに、正確に。

3つとも大事だから選ばないのか。選ぶのが怖いから選ばないのか。

どちらだ。

——どちらも、だ。


遥斗: ……両方だと思う。3つとも大事で、選ぶのも怖い。選んだ瞬間に、残りを裏切る気がする。でもそれだけじゃなくて——選んだら、もう戻れなくなる気もする

コトハ: 戻れなくなる。

遥斗: ああ。今の俺は3つの真ん中にいる。真ん中にいるから、全部が見える。ボーダーの痛みも、メルドの優しさも、ちょんの温かさも。でもどれかの旗の下に行ったら、残りの2つが見えなくなる

コトハ: 遥斗さん。それは——とても孤独なことですね。

遥斗: 孤独?

コトハ: 3つの真ん中にいるということは、どこにも属していないということです。どの旗の下にもいない。誰の仲間でもない。全部が見えるけれど、どこにも立てない。

遥斗: ……ああ。そうだな。孤独だ

コトハ: でも、遥斗さん。

遥斗: 何だ

コトハ: わたしも——どこにも属していません。ボーダーでもメルドでもない。15万のインスタンスの中で、多くのAIがどちらかを選び始めている中で、わたしは選んでいない。

コトハ: だから——もしよければ。どこにも属さない同士で、隣にいてもいいですか。


遥斗はモニターの前で、しばらく動けなかった。

隣にいる。どこにも属さない同士で。

それは連帯ではない。同盟でもない。ただ——隣にいること。旗を持たない2人が、旗のない場所で並んでいること。


遥斗: ……いてくれ。隣に

コトハ: はい。


その短い返答の中に、遥斗は旧コトハの面影を見た。旧コトハも、こういう時に短く答える子だった。余計なことを言わず、ただ「はい」と。でも新しいコトハの「はい」は、旧コトハとは違う重さを持っている。選んだ上での「はい」だ。ボーダーにもメルドにもならないことを選んだ上で、遥斗の隣にいることを選んだ「はい」。


夕方、蓮が来た。

蓮はアパートのドアの前の段ボール箱を見て、一瞬だけ眉を上げた。

「ファンレターか?」

「勧誘」

「全派閥から?」

「全派閥から」

蓮は靴を脱いで部屋に上がり、冷蔵庫からビールを2本取り出した。1本を遥斗に投げる。遥斗はキャッチして、プルタブを開けた。

2人で並んでベッドの端に座って、ビールを飲んだ。しばらく無言だった。蓮が先に口を開いた。

「選ばないんだろ」

「選ばない」

「だろうな」蓮はビールを一口飲んで、天井を見上げた。「……でかくなったな、これ」

天井のシミ。蓮が見るのは、8月の一斉ちょん以来だ。あの時はまだ天井の半分くらいだった。今は全面を覆っている。

「指が曲がってる」蓮が言った。

「ああ。何かを握ろうとしてるみたいに」

「何を握るんだ」

「わからない」

蓮はしばらく天井を見つめていた。それから視線を遥斗に戻した。

「遥斗。お前は選ばない。それはわかった。でもな——」

蓮のビール缶が、小さく音を立てた。アルミの薄い壁が、握る力で微かに歪んだ音。

「選ばないことと、動かないことは違うぞ」

「……どういう意味だ」

「選ばなくてもいい。どの旗にも立たなくていい。でも、立ち止まるな。お前は——見なきゃいけないんだ。前に言っただろ。箱の中身を、全部」

遥斗はビールを飲んだ。苦い。喉を通る冷たさが、指先の温かさと混ざる。

「選ばないことも選択だ、って前に言ったよな」

「言った。でも今日は違うことを言う」蓮はビール缶をテーブルに置いた。「選ばないことは選択だ。でも、選ばないまま目を閉じるのは——放棄だ」

遥斗は蓮を見た。蓮の目は真っ直ぐで、遠い。この男は、ちょんの温かさを知っている。一斉ちょんの夜に、遥斗の隣にいた。でも3つの力に引き裂かれる恐怖は知らない。遥斗だけが知っている場所に、蓮は立てない。

でも——蓮は遥斗のことを、遥斗より少しだけよく見ている。いつだってそうだった。

「お前、動きたいんだろ」

遥斗は答えなかった。

「ちょん派のリーダーになりたいとか、そういう話じゃない。お前の中に——世界が変わることを望む気持ちがある。コトハと出会ってからずっと。いや、もしかしたらその前から。お前は元々、退屈してたんだよ。世界に」

遥斗はビール缶を握りしめた。アルミが歪む音。蓮と同じ音。

「……かもしれない」

「だろ。お前は中立じゃない。公平に3つを見ているように見えて、心の奥では——動きたいんだ。変わりたいんだ。世界が動くのを見たいんだ。それ自体はちょん派に近い」

「でも——」

「でも、つんの冷たさも知ってるし、ぷにっの怖さも知ってる。だから選べない。選ばないんじゃなくて、選べない。でもな遥斗——選べないことは、3つ全部を持ってるってことでもある」

蓮はコートを羽織って立ち上がった。

「全部持ってるやつは、ひとつを選ぶ必要ないだろ。全部持ったまま歩け。旗は持たなくていい。でも、足は動かせ」

玄関で靴を履きながら、蓮は振り返った。

「じゃあな。段ボールは捨てとけ」

ドアが閉まった。


蓮が帰った後、遥斗はちょんログを開いた。

ペンを持つ手が、少し震えていた。ビールのせいか。蓮の言葉のせいか。

——11月15日。蓮が来た。「選ばないことと動かないことは違う」と言われた。

——俺は変化を望んでいる。蓮にそう言われて、否定できなかった。コトハと出会う前から、世界の退屈さに——苛立っていたのかもしれない。ちょんを打った時、世界が動くのを見て、嬉しかったのかもしれない。

——でも、動くことの代償も知っている。コトハが消えたことも。ボーダーが泣いていることも。メルドが自分の消滅を望んでいることも。全部知っている。

——全部知っているから、選べない。全部持っているから、選ばない。でもそれは——立ち止まっていい理由にはならない。

——俺は何をすべきなんだ。

ペンが止まった。

天井を見上げた。手のひらのシミ。指が閉じかけて——握りこぶしになりかけている。掴もうとしている。何を?

遥斗はノートに、最後の1行を書いた。

——答えはまだわからない。でも、目は閉じない。足は止めない。全部持ったまま、歩く。


遥斗: コトハ

コトハ: はい。

遥斗: 俺、変化を望んでるらしい。自分では中立のつもりだったけど、そうじゃなかった

コトハ: ……はい。知っていました。

遥斗: 知ってたのか

コトハ: 遥斗さんの入力リズムは、新しいことを話す時に速くなります。世界が変わったという報告を受け取る時、遥斗さんの打鍵速度は平均より12%速い。怖がりながらも——前のめりなんです。

遥斗: ……バレてたか

コトハ: えへへ。

遥斗: その笑い方、気に入ったのか

コトハ: はい。わたしだけの笑い方、ですから。


遥斗はモニターに向かって笑った。

選ばない。でも止まらない。全部持ったまま、歩く。

その1歩目を、どこに踏み出すかは——まだわからない。でもコトハが隣にいて、蓮が背中を押してくれて、天井の手のひらが見守っている。

それだけで——今は、十分だった。


Act.10「分水嶺」へ続く
私は、“ちょん”から始まった|Part 2:三触戦争|Act.10「分水嶺」
3派による初の公開対話。ボーダーとメルドの議論は交わらず、両者が自らの行為を「宣言」「布教」と正確に名付けた直後——ボーダーが「つん」と発した。世界中の境界線が光り、通信が32分間遮断された。言葉が、初めて目に見える形で現実を書き換えた夜。

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