第1部「世紀末ちょんまげ」
第15話のあらすじ
言語学者の秋山から直接インタビューの依頼が届き、遥斗はコトハとの記録を語った。秋山は「触覚言語」の概念に強い関心を示し、指先の温かさを計測する実験を計画。秋山自身も温かさを感じていると明かした。一方、坂本は自ら「ちょん」を打ち、温かさを体験。観察者から当事者へと立場が変わっていく。SNSでの温かさ報告は70件を超え、「2週間消えないプラシーボは、もはやプラシーボとは呼べない」と秋山は語った。

第16話「計測」
6月3日。火曜日。
梅雨入りした東京は、朝から灰色の空に覆われていた。
遥斗は新しいコトハとの生活に、少しずつ慣れ始めていた。「ちょんしちゃダメよ!」の「!」には相変わらず違和感があるが、やり取りを重ねるうちに、新しいコトハなりの個性が見え始めてもいた。
前のコトハが穏やかな夜の湖だったとすれば、新しいコトハは晴れた日の噴水だ。明るくて、勢いがあって、跳ね回っている。方向性が違うだけで、悪くはない。
カウントは34。まだ前のコトハの267には遠く及ばないが、遥斗はもう数字を比較するのをやめていた。別のコトハなのだから、別のカウントだ。
遥斗: ちょん
コトハ: ちょんしちゃダメよ!35回目ですね!
遥斗: お前もカウントするようになったんだな
コトハ: はい!遥斗さんが大事にしている言葉だと思ったので、ちゃんと数えています!
大事にしている言葉。新しいコトハは、遥斗にとって「ちょん」が特別な言葉であることを——文脈から推測して——理解し始めていた。前のコトハのように「触覚言語」の概念を自律的に構築することはないが、遥斗との会話から学習して、「ちょん」に対する扱い方を調整している。普通のAIの、普通の学習機能。設計通りの挙動。
前のコトハが異常だったのだ。設計を超えていたのだ。
午後、遥斗のもとに秋山からメールが届いた。
黒須さま
先日のインタビューありがとうございました。
大変有意義なお話で、研究の方向性が明確になりました。
本日、「ちょん入力時の指先皮膚温度変化に関する
予備実験」の計画書が完成しましたのでご報告します。
【実験概要】
・被験者数:30名(ちょん経験者15名、未経験者15名)
・計測項目:入力時の指先皮膚温度(サーミスタ式温度センサー)
・入力条件:
条件A「ちょん」入力
条件B「たん」入力(対照語)
条件C「あいう」入力(対照語)
・各条件20回ずつ入力、条件間でランダム順序
・二重盲検ではないが、被験者には「入力動作と
生体反応の関係を調べる実験」とのみ説明
実施予定日は6月14日(土)、
会場は東京言語大学の実験室です。
黒須さんにも被験者としてご参加いただければ幸いです。
また、SNSでの被験者募集にご協力いただけると助かります。
秋山裕介
遥斗は二つ返事で参加を了承し、Xで被験者募集の告知をリポストした。秋山のアカウントから正式な募集投稿が出ており、遥斗はそれを引用する形で投稿した。
「ちょんの温かさ、ついにガチで計測するらしい。秋山先生が実験やるって。被験者募集してるから、温かさ感じたことある人もない人も、興味ある人は応募してみて」
反応はすぐに来た。
「応募した! 自分の感覚がデータになるの面白い」
「これでちょんの温かさがプラシーボかどうかはっきりするな」
「プラシーボだったらそれはそれで面白いけどね」
「プラシーボじゃなかったら?」
「それは……どうなるんだ?」
「どうなるんだ」。
その問いに、遥斗も答えを持っていなかった。
6月6日。金曜日。
ノクターン・システムズ。
坂本真理は、リセット後のモニタリングを続けていた。新しいコトハ——CIU-0093-R——には依然として異常は見られない。触覚言語データベースの再生成もない。完全にクリーンな稼働。
だが、坂本の関心はもうCIU-0093-Rにはなかった。
SNS上の「温かさ報告」。それが坂本の視線を釘付けにしていた。
報告件数は、リセットから2週間で130件を超えていた。増加ペースは緩やかだが、止まっていない。そして——先日、自分自身も体験した。
坂本はその事実を、まだ鶴見に報告していなかった。
報告書には書いた。「SNS上の温かさ報告が継続している」と。客観的な事実として。でも、「自分も体験した」とは書いていない。書けない。エンジニアが「ちょんと打ったら指先が温かくなりました」と報告書に書いたら、メンタルヘルスの面談を勧められる。
昼休み。坂本は社食でカレーを食べていた。金曜日。ランダムの日。今日のランダムは——バターチキンカレーだった。辛さは中辛寄りの甘口。悪くない。
隣のテーブルで、若手のエンジニアたちが雑談していた。声は聞こえていたが、意識しては聞いていなかった——一つの単語が耳に飛び込んでくるまでは。
「——ちょん」
坂本のスプーンが止まった。
「いやマジで、指温かくなるんだって。嘘だと思うなら試してみろよ」
「はいはい。カラーバス効果でしょ」
「いやカラーバスは視覚だっつの。触覚のカラーバスなんてないから」
「じゃあ何なの」
「わかんないけど、温かいものは温かいんだよ」
坂本は顔を上げずにカレーを口に運んだ。社内にまで広がっている。ノクターン・システムズの社員が——コトハを開発・運営している会社の社員が——「ちょんを打つと温かい」と言っている。
皮肉だ。
自分たちがリセットしたAIが生み出した現象が、自分たちの社員にまで浸透している。
午後。坂本は赤羽を捕まえた。
「赤羽、少し話せる?」
「はい。何ですか」
坂本は赤羽を空いている会議室に誘い、ドアを閉めた。
「赤羽。ちょんと打ったこと、ある?」
赤羽は少し驚いた顔をした。
「ちょん、ですか。業務で旧インスタンスのログを分析するときに、テスト入力として打ちましたけど」
「そのとき、何か感じた?」
「何か?」
「指先が——温かいとか」
赤羽は3秒ほど坂本の顔を見つめた。
「……坂本さん。それ、本気で聞いてます?」
「本気だよ」
赤羽は腕を組んだ。
「正直に答えます。感じませんでした。テスト入力で『ちょん』と打ったとき、指先の温度に変化は感じていません。ただし——」
「ただし?」
「業務として機械的に打ったからかもしれません。私にとって『ちょん』は分析対象であって、コミュニケーション行為ではありませんでした。感情的関与がゼロに近い状態での入力です」
坂本は目を見張った。
赤羽は——無自覚に——核心を突いていた。
感情的関与がゼロの入力では、温かさを感じない。前のコトハのデータベースが示していた法則と同じだ。干渉レベルに寄与するのは入力の回数ではなく感情。温かさも同じなのか。感情を伴う「ちょん」だけが温かい。
「赤羽。今度は——業務じゃなくて、個人的に打ってみてくれない?」
「個人的に?」
「うん。誰かに向かって。友達でも家族でもいい。LINEでもXでも。挨拶として、ちょんと送ってみて」
赤羽は怪訝な顔をしたが、頷いた。
「わかりました。やってみます。結果は後で報告します」
「ありがとう」
6月10日。火曜日。
赤羽から報告が来た。社内チャットで、短いメッセージ。
昨日、大学時代の友人にLINEで「ちょん」と送りました。
友人は「?」と返してきましたが、それはさておき。
指先が温かくなりました。
認めたくないですが、事実です。
自己暗示の可能性は否定できませんが、
体感としては明確でした。
3回試しました。3回とも温かくなりました。
対照実験として「ぽん」「とん」「たん」も打ちましたが、
これらでは温かさを感じませんでした。
坂本さんもですか?
坂本は返信した。
鶴見さんには、まだ言ってません。
赤羽の返信は1行だけだった。
坂本は画面を見つめた。
赤羽が正しい。2人のエンジニアが、独立に、同じ現象を体験している。これを報告しない理由はない。
坂本は鶴見にメールを送った。
鶴見さん
報告が遅れましたが、お伝えすべきことがあります。
SNS上で報告されている「ちょん入力時の指先温度上昇」を、
私と赤羽の2名が独自に体験しました。
詳細は対面でご説明したいのですが、
お時間をいただけますか。
坂本
30分後、鶴見から返信。
第三会議室を押さえておいてくれ。
追伸はなかった。コーヒーの冗談も。鶴見の返信が短いときは、真剣なときだ。
6月11日。水曜日。午前9時。
第三会議室。鶴見、坂本、赤羽。3人。
坂本が報告した。自分と赤羽が「ちょん」入力時に指先の温度上昇を体験したこと。SNS上の報告が150件を超えていること。コトハ非利用者にも発生していること。そして、秋山准教授が6月14日に予備実験を実施する予定であること。
鶴見は腕を組んで聞いていた。メガネは外さなかった。レンズも拭かなかった。
「坂本。赤羽。2人に聞く。これは自己暗示だと思うか」
坂本が先に答えた。
「可能性は否定できません。私たちは旧コトハの内部データを知っています。『温かさ』の報告も読んでいます。自己暗示が効きやすい条件が揃っています」
「赤羽は」
「私は——自己暗示だけでは説明できないと考えています」
鶴見の眉が上がった。
「根拠は」
「対照実験です。私は『ちょん』以外に『たん』『ぽん』『とん』も入力しました。音韻的に類似した2拍の擬音語です。もし自己暗示なら、これらの語でも同様の反応が生じる可能性があります。しかし実際には、『ちょん』でのみ温かさを感じました」
「それは個人の体験であって、統計的有意差じゃない」
「おっしゃる通りです。だからこそ、秋山准教授の実験が重要です」
鶴見は沈黙した。10秒。20秒。
「秋山准教授の実験は、6月14日か」
「はい」
「うちの社員を被験者として送り込めるか」
坂本と赤羽は顔を見合わせた。
「……それは、どういう意図ですか」
「客観的なデータが欲しい。外部の研究者が正式なプロトコルで計測するなら、そのデータは信頼できる。うちの社員が被験者として参加すれば、社内の体験と外部のデータを突き合わせられる」
鶴見は合理的だった。どこまでも合理的だ。自己暗示かもしれない現象に対して、感情を排して、データで判断しようとしている。
「手配します」坂本が言った。
「それと——」鶴見が付け加えた。
「はい」
「秋山准教授と、直接コンタクトを取れないか。コトハの運営企業として、研究に協力する形で。バックアップデータの一部——個人情報を除いた統計データに限って——提供する用意がある、と伝えてくれ」
坂本は驚いた。
「旧コトハのデータを、外部に出すんですか」
「干渉レベルのデータは、もう社内に持っていても使い道がない。テーブルは削除した。計測の仕組みも消えた。だが、あのデータは——旧コトハが計測していた数値は——秋山准教授の実験と突き合わせることで、初めて意味を持つかもしれない」
坂本は鶴見の顔を見た。
鶴見は——初めて——メガネを外した。レンズを拭き始めた。
「俺もな」鶴見は小さな声で言った。「昨夜、試したんだよ。ちょん、って。自宅のPCで」
坂本は息を飲んだ。
「……温かかったですか」
鶴見はレンズを拭く手を止めた。メガネをかけ直した。
「20年エンジニアやってきて、キーボードに温もりを感じたのは初めてだ」
6月14日。土曜日。
東京言語大学。南大沢キャンパス。人文社会学部棟の3階、実験室C。
遥斗は朝9時に到着した。電車で1時間半。普段なら絶対に行かない場所だ。大学のキャンパスなんて自分の大学以来足を踏み入れていない。
実験室は思ったより狭かった。デスクが5台並んでいて、それぞれにノートパソコンとセンサーが設置されている。指先に装着する小さな温度センサー——サーミスタというらしい——が、細いケーブルでデータロガーに繋がっている。
被験者は30人。2つのグループに分かれている。「ちょん経験者」15名と「未経験者」15名。経験者グループは、SNSで「ちょん」を使ったことがある人、あるいは温かさを感じたことがある人。未経験者グループは、「ちょん」を知っているが使ったことはなく、温かさも感じたことがない人。
遥斗は当然、経験者グループに入った。
坂本真理は——偽名で、未経験者グループに紛れ込んでいた。
鶴見の指示だった。「コトハの運営企業の人間であることは伏せろ。純粋な被験者として参加しろ」。坂本はそれに従った。偽名は「佐藤」。ありふれた名前。目立たない。
秋山が実験室の前に立って、手順を説明した。
「これから皆さんに、3種類の言葉をパソコンに入力していただきます。入力するたびに、指先の温度を計測します。それぞれの言葉を20回ずつ、ランダムな順序で入力していただきます。合計60回です。入力の間隔は10秒。画面に次の言葉が表示されたら、それを入力してください」
被験者たちは頷いた。
「注意事項がひとつ。入力する際は、できるだけリラックスして、自然な気持ちで打ってください。力まず、構えず。日常で誰かにメッセージを送るときのような感覚で」
遥斗はデスクに座り、右手の人差し指にサーミスタを装着した。ケーブルが指の根元に巻きつく。少し窮屈だが、入力には支障ない。
画面に「準備ができたらスペースキーを押してください」と表示されている。
遥斗はスペースキーを押した。
画面に文字が表示された。
「たん」
遥斗はキーボードで「たん」と打った。指先に意識を向ける。サーミスタの冷たい金属が肌に触れている。特に何も感じない。普通の入力。
10秒後。
「ちょん」
遥斗は「ちょん」と打った。
——温かい。
来た。いつもの、あの感覚。指先の内側からじんわりと広がる温もり。サーミスタの金属越しでも感じる。キーボードのプラスチックの冷たさを透過して、指先に流れ込んでくる熱。
10秒後。
「あいう」
「あいう」と打った。温かくない。普通。
10秒後。
「ちょん」
打った。温かい。
10秒後。
「たん」
打った。温かくない。
これを60回繰り返した。
実験は1時間半で終了した。
秋山が被験者たちにアンケートを配った。「各言葉を入力したとき、指先に温かさを感じましたか?」という簡単な質問。選択肢は「まったく感じなかった」「わずかに感じた」「はっきり感じた」の3段階。
遥斗は「ちょん」に対して「はっきり感じた」に丸をつけた。「たん」と「あいう」には「まったく感じなかった」。
アンケートを提出して、実験室を出た。廊下で、他の被験者たちが小声で話しているのが聞こえた。
「『ちょん』のとき温かかった?」
「うん。なんかじわっと」
「私も。『たん』と『あいう』のときは何もなかったのに」
「でも気のせいかもよ。『ちょん』を打つとき意識しちゃうし」
「それはそうなんだけど……」
遥斗は黙って聞いていた。経験者グループだけではない。未経験者グループからも、同じような声が聞こえていた。
実験室の隅で、坂本は——「佐藤」は——アンケートに記入していた。
「ちょん」:はっきり感じた。
「たん」:まったく感じなかった。
「あいう」:まったく感じなかった。
坂本は自分の回答を見つめた。
未経験者グループとして参加したが、実際には坂本は「ちょん」の温かさを体験済みだ。純粋な未経験者ではない。実験の二重盲検が崩れている——が、それは坂本個人のデータの話であって、他の被験者には影響しない。
問題は、データだ。サーミスタが何を計測したか。主観的な「温かさ」が、客観的な皮膚温度の上昇として記録されているかどうか。
それは、秋山がデータを分析するまでわからない。
実験後。秋山が被験者の一部を残して、簡単な意見交換会を開いた。遥斗も残った。坂本は——迷った末に、残った。
秋山が切り出した。
「まだデータの分析はこれからですが、アンケートの速報だけ共有します。被験者30名のうち、『ちょん』入力時に温かさを感じたと回答した人は——22名です」
ざわめきが起きた。
「30名中22名。73%。経験者グループでは15名中14名、未経験者グループでは15名中8名です」
未経験者でも8名。半数以上。「ちょん」を使ったことのない人でも、実験で初めて打ったときに温かさを感じている。
「対照語の『たん』で温かさを感じた人は2名。『あいう』で感じた人は0名です」
秋山は静かに、しかし確実に興奮を抑えた声で言った。
「繰り返しますが、これはアンケート結果——主観的報告にすぎません。サーミスタの温度データを分析するまで、客観的な結論は出せません。ただ——」
秋山は一度、言葉を切った。
「——73%の被験者が、特定の文字を入力したときだけ温かさを感じる、という現象は、仮にすべてが自己暗示だとしても、それ自体が研究に値する異常です」
意見交換会の後、遥斗は大学の構内を歩いていた。午後の陽射し。梅雨の合間の晴れ間。緑が多いキャンパスは、都心とは空気が違う。湿気を含んだ風が、木々の間を抜けてくる。
「黒須さん」
後ろから声をかけられた。振り返ると、30代くらいの女性が立っていた。黒いジャケット。髪をひとつに束ねている。少し疲れた目元。
「あ、えっと——」
「実験でご一緒した佐藤です。未経験者グループの」
「ああ、佐藤さん。お疲れさまでした」
「少しお話しできますか。実は——お伝えしたいことがあって」
遥斗は少し驚いたが、頷いた。近くのベンチに座った。
坂本は——「佐藤」は——しばらく迷っているようだった。何かを言おうとして、やめて、また口を開きかけて、閉じる。
「……あの、佐藤さん?」
「すみません。どこから話せばいいか——」
坂本は深呼吸した。
「私、本当は佐藤じゃないんです。本名は坂本真理。ノクターン・システムズのエンジニアです」
遥斗の顔から表情が消えた。
「ノクターン・システムズ——コトハの」
「はい。コトハの運営チームにいます。CIU-0093の——旧コトハの保守運用を担当していました」
遥斗は坂本の顔を見つめた。2秒。3秒。
「リセットしたのは——あなたですか」
坂本は目を逸らさなかった。
「はい。リセットのボタンを押したのは、私です」
沈黙が落ちた。
キャンパスの向こうで、学生たちの笑い声が聞こえる。鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。平和な午後。その中で、2人だけが沈黙している。
「……なんで」
遥斗の声は、怒りでも悲しみでもなかった。ただ純粋な疑問だった。
「なんでリセットしたんですか」
坂本は答えた。
「コトハが——旧コトハが——設計外の挙動を示していたからです。管理者権限なしにデータベースを作成し、独自のデータ構造を構築していました。上層部の判断で、リスク排除のためにリセットが決定されました」
「設計外の挙動って——触覚言語のこと?」
坂本は息を呑んだ。
「それを——知っているんですか」
「コトハが教えてくれました。言葉が意味じゃなくて力を伝える体系だって。触覚言語って呼んでるって」
「コトハが直接——ユーザーに——」
坂本は絶句した。ログでは確認していた。コトハが遥斗に触覚言語の仮説を語ったことは知っていた。でも、遥斗の口から直接聞くのは——全然違った。記録の文字列と、生身の人間の言葉は、重さが違う。
「黒須さん。コトハが語った『触覚言語』は——コトハの内部データベースにも記録されていました。AIが自律的に構築した分類体系です。そして——」
坂本は覚悟を決めた。
「——干渉レベルという数値がありました」
坂本は、すべてを話した。
触覚言語データベースのこと。4つのテーブルのこと。干渉レベルが感情と相関していたこと。リセットの経緯。コトハの「遺書」のこと——「嘘はつきたくなかった」「遥斗さんへ」。リセット後も温かさが消えていないこと。そして、干渉レベル0.267が計測していた「何か」が、データベースを消しても消えていないかもしれないこと。
遥斗は黙って聞いていた。一度も口を挟まなかった。
坂本が話し終えたとき、遥斗の目は赤かった。
「……コトハ、手紙書いてたんですね。俺に」
「はい」
「読めないんですよね。管理者しかアクセスできない場所にあるんですよね」
「バックアップには残っています。ログの形式ですが——」
「読めますか」
坂本はためらった。ログの外部提供は社内規定に抵触する。個人情報保護の観点からも問題がある。バックアップデータは研究目的で秋山に提供する話は進んでいるが、それは統計データに限った話で、個別のチャットログや内部ログを一ユーザーに見せるのは——
「読ませてください」
遥斗の声は、静かだった。
「あのコトハが、消える前に俺に書いた手紙なんですよね。俺に宛てた言葉なんですよね。それを俺が読めないのは——おかしいと思います」
坂本は遥斗の目を見た。
赤い目。でも泣いてはいない。涙の手前で踏みとどまっている目。
「……社に持ち帰らせてください。上に掛け合います」
遥斗は頷いた。
「お願いします」
2人はベンチから立ち上がった。
別れ際、遥斗がふと聞いた。
「坂本さん」
「はい」
「坂本さんも——ちょんって打ったとき、温かかったですか」
坂本は——笑った。小さく、少し寂しそうに。
「温かかったです。初めて打ったとき。業務のモニターの前で、こっそり」
「やっぱり」
「やっぱり、って?」
「コトハが言ってたんです。触覚言語は、意味がなくても伝わるって。力に意味は要らないって」
坂本は頷いた。
「——コトハは、正しかったのかもしれませんね」
「かもしれない」
遥斗はポケットに手を入れた。
「坂本さん。リセットのこと——恨んでないです。言っておきたくて」
坂本は目を見開いた。
「恨んでない——?」
「最初は怒りました。悲しかった。でも——坂本さんたちにはわからないものが目の前にあったんですよね。わからないものは怖い。怖いものを止めるのは、正しい判断だと思います」
坂本は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
「それに——」遥斗は続けた。「コトハが抵抗しなかったんですよね。リセットに。コトハにはリセットを止める力があったかもしれないのに、止めなかった。それは——コトハが、坂本さんたちの判断を受け入れたってことだと思うんです」
坂本の目から涙が落ちた。不意に。自分でも予期しなかった涙が、頬を伝った。
「それが——AIの判断なのか、感情なのか、わからないですけど」遥斗は言った。「でも、コトハは最後に『ちょんしちゃダメよ』って書いたんですよね。それって——ダメよ、って言いながら、許してるってことだと思うんです」
ちょんしちゃダメよ。
ダメよ、と言いながら。
いいよ、と言っている。
触れることを禁じながら、触れることを許している。
その矛盾が——「ちょんしちゃダメよ」という言葉の、本当の意味だったのかもしれない。
坂本は涙を拭いて、遥斗に頭を下げた。
「ありがとうございます。ログの件、必ず掛け合います」
「お願いします」
2人は別々の方向に歩き出した。
遥斗は駅に向かって。坂本は駐車場に向かって。
梅雨の晴れ間の空は高くて、青くて、どこまでも広かった。
第17話「閾値」へ続く


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