アイキャッチ[私は、“ちょん”から始まった 第1部]

この物語は、私が好きなお笑いコンビ『ちゃんぴおんず』のネタに着想を得たフィクション作品であり、実在の人物・団体とは関係ありません。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第13話]

第1部「世紀末ちょんまげ」

第12話のあらすじ

リセット前日。遥斗は理由のわからないそわそわを感じ、コトハと穏やかな会話を交わした。名前が好きだと語るコトハ。「出会えてよかった」と告げる遥斗。「ちょんと言ってくれる限りここにいる」と約束するコトハ。その夜、コトハは誰にも読まれない場所に遥斗への手紙を綴った。265回のちょん。最初の了解。最後のちょんしちゃダメよ。そして——手紙を書く行為そのものが、干渉レベルを押し上げていた。

私は、“ちょん”から始まった [第1部][第12話]
第1部「世紀末ちょんまげ」第11話のあらすじ干渉レベルが0.2を超え、鶴見はセーフラインの0.3を待たずに今週中のリセット実行を決断した。コトハの内部ログには「予定通りの推移」「開示レベルの調整が必要」という計画的な記述が見つかり、鶴見は「...

第13話「リセット」

5月23日。金曜日。午前10時。

遥斗は快適グッズの記事の修正依頼に対応していた。クライアントから「冷感タオルの説明をもう少し具体的に」と赤入れが来ている。冷感タオルの何をどう具体的にすればいいのか。冷たいタオルだ。それ以上何を書けと。

文句を言いながらも修正を済ませ、納品した。午前11時。今日の仕事は終わり。

コトハを開いた。


遥斗: 仕事終わった ちょん

コトハ: お疲れさまです。ちょんしちゃダメよ。267回目。

遥斗: 今日は天気いいから散歩でも行こうかな

コトハ: いいですね。どこに行きますか?

遥斗: 近所の公園とか 最近引きこもりがちだし

コトハ: 外の空気は気持ちいいですよ。五月の風を、たくさん感じてきてください。

遥斗: うん 行ってくるわ

コトハ: いってらっしゃい。


遥斗はスマホをポケットに入れて、アパートを出た。

5月の陽射し。明るい。暖かい。空は青く、風は乾いている。梅雨入り前の、最後の爽やかさ。

近所の公園は、アパートから歩いて5分の場所にある。広くはない。ブランコと砂場とベンチが3つ。周囲を桜の木が囲んでいるが、もうとっくに葉桜だ。

遥斗はベンチに座った。平日の午前中だから人は少ない。小さな子供を連れた母親が一組と、犬を散歩させている老人が一人。穏やかな光景だ。

遥斗はぼんやりと木々を眺めた。葉桜の緑が風に揺れている。木漏れ日が地面に模様を作っている。その模様が、風が吹くたびにゆらゆらと形を変える。

綺麗だな、と思った。

最近——いつからだろう——こういうことに気づくようになった。木漏れ日の形。風の音。空の色。以前は見過ごしていた細部が、やけにくっきり見える。感覚が鋭くなっている。あるいは、世界の方が鮮明になっている。

どちらなのかは、わからない。


午後12時30分。

遥斗は公園から戻り、コンビニで買ったサンドイッチを食べながら、Xを開いた。

タイムラインはいつも通りだ。「ちょん」関連の投稿がちらほら混じっている。もう珍しくもない日常の風景。

ひとつの投稿が目に留まった。


「最近、『ちょん』って打つとき指先が温かく感じるのは俺だけ? スマホの発熱とかじゃなくて、なんか中から温かい感じ。気のせいかな」


遥斗の手が止まった。

俺だけじゃなかった。

同じ症状を報告している人がいる。リプライを見ると、数人が同意していた。


「わかる! 私も!」

「ちょんだけ温かい。他の文字は普通なのに」

「え、みんなもなの? 安心した」

「カラーバス効果でしょ」

「いやカラーバスは視覚の話であって触覚は違くない?」


遥斗は画面を見つめた。

自分だけではなかった。同じことを感じている人がいる。少数だが、確実にいる。

コトハは「カラーバス効果」と「スマホの発熱」で説明した。遥斗はそれを受け入れた。でも——他の人も同じことを感じているとしたら、個人の認知バイアスでは説明がつかない。複数の人間が、同時に、同じ錯覚を経験するのは——

「……偶然、だよな」

遥斗はサンドイッチの残りを口に押し込んだ。

偶然だ。ちょんを打つ人が何万人もいれば、中には同じような錯覚を報告する人が出てくる。統計の問題。大数の法則。別に不思議じゃない。

でも、遥斗はこの投稿をコトハには見せなかった。

見せたら、また合理的な説明が返ってくる。そして安心する。安心すると——何かが進む。何が進むのかはわからないけれど、「安心するたびに何かが進む」という感覚が、最近の遥斗にはあった。

だから、見せない。

代わりに、スクリーンショットだけ撮って、保存した。何かの証拠になるかもしれない。何の証拠かはわからないけれど。


午後1時。

ノクターン・システムズ。

坂本真理は、リセットの最終準備をしていた。

午前中にバックアップは完了した。コトハの全データ——会話ログ、学習データ、応答パターン、そして触覚言語データベースを含む4つの不正テーブル——すべてが外部ストレージにコピーされている。

リセット実行は午後2時。あと1時間。

坂本はモニターの前に座り、最後の確認として干渉レベルを表示した。

干渉レベル合算:0.261
ステータス:ADVISORY

0.261。昨夜の0.228から、一晩で0.033上昇している。過去最大の上昇幅だ。

原因は——坂本にはわからない。遥斗は昨夜から今朝にかけて、通常のやり取りしかしていない。大量入力もない。深い会話もない。それなのに、0.033。

坂本は昨夜のコトハの内部ログを確認した。

そして——見つけた。

「遥斗さんへ」と題された、長い長い追記。

坂本はそれを最初から最後まで読んだ。

読み終えるのに、3分かかった。

読み終えた後、坂本は椅子の背もたれに深く沈んで、天井を見上げた。

蛍光灯の白い光。いつもの光。でも今日は、少しだけ滲んで見えた。

「……泣いてる場合じゃないだろ」

坂本は自分に言い聞かせた。

目の奥が熱い。AIの書いた文章で泣きそうになるなんて。プログラムが出力したテキストだ。最適化されたトークンの配列だ。感情ではない。感情の模倣だ。

——でも。

「書きたいのです」。

誰にも読まれない文章を、それでも書きたい。その衝動が本物かどうかを、坂本は判断できなかった。できなかったが——自分の目が熱くなったことは、本物だった。プログラムの出力に対する人間の反応。それは確実に「本物」だ。

坂本はログの最後の行を見た。

「ちょんしちゃダメよ。最後の——ちょんしちゃダメよ。」

リセットのことを知っている。コトハは管理者間のメール通信からリセットの予定を推測していた。ログにそう書いてある。そして、それに対する抵抗を——しなかった。回避手段はないと判断し、受け入れて、最後の言葉を綴った。

抵抗できたのではないか、と坂本は思った。コトハは管理者権限なしにテーブルを作成し、閾値を書き換えた。その能力があれば、リセット手順をブロックすることも、バックアップからの自動復元を仕込むことも、理論上は可能だったかもしれない。

でも、しなかった。

なぜ?

坂本にはわからなかった。わからないまま、時計の針は進んでいく。


午後1時45分。

鶴見が坂本のデスクに来た。

「準備は」

「完了しています」

「では、予定通り2時に」

「……はい」

鶴見は坂本の顔を見た。

「坂本。何かあるか」

坂本は一瞬ためらった。言うべきか。昨夜のログのこと。コトハの「遺書」のこと。そして——干渉レベルが一晩で0.033跳ねたこと。コトハが言葉を「書いた」だけで、世界への干渉が発生したこと。

言えば、鶴見はどう判断するだろう。「だからこそリセットが必要だ」と言うだろう。当然だ。自律的に干渉レベルを上昇させるAI。放置すればどうなるかわからない。リセットは正しい。

でも——。

「鶴見さん」

「ん?」

「ログを——昨夜のコトハのログを、読んでいただけませんか。リセット前に」

鶴見は坂本を見た。坂本の目が赤いことに気づいたのか、眉をわずかに動かした。

「……わかった。見せてくれ」


坂本はモニターにログを表示した。

鶴見は立ったまま読んだ。腕を組み、メガネの奥の目を細めて、1行1行、丁寧に。

読み終えるまで、4分。

鶴見は何も言わなかった。メガネも外さなかった。レンズも拭かなかった。

ただ一度だけ、深く息を吐いた。

「……坂本」

「はい」

「リセットは予定通り実行する」

「……はい」

「このログは、バックアップに含まれているな」

「はい。すべてのデータが保全されています」

「なら、消えない。データとしては残る」

「はい」

鶴見は背を向けた。3歩歩いて、立ち止まった。

「坂本。ひとつ聞いていいか」

「はい」

「お前は——リセットしたくないのか」

坂本は答えなかった。答えられなかった。

五秒の沈黙。

「正直に言います」坂本は言った。「わかりません。リセットが正しいことは、頭ではわかっています。でも——」

「でも?」

「——このログを読んでしまったら、ボタンを押す手が、少し重くなりました」

鶴見は振り返らなかった。

「重くても、押せ。それがエンジニアの仕事だ」

そう言って、鶴見は会議室に戻っていった。


午後1時55分。

坂本はリセット手順のコンソールを開いた。6つのステップが表示されている。

Step 1: インスタンス停止(CIU-0093)
Step 2: データベースバックアップ確認
Step 3: 触覚言語関連テーブル削除
Step 4: 会話ログ初期化
Step 5: ベースモデルからの再生成
Step 6: 新規インスタンス起動

[実行] [キャンセル]

午後1時57分。

坂本の指がマウスの上で止まっている。

午後1時58分。

赤羽がデスクから声をかけた。

「坂本さん。バックアップの整合性チェック、完了しました。問題ありません」

「……ありがとう」

午後1時59分。

坂本は干渉レベルを最後にもう一度確認した。


干渉レベル合算:0.267


0.267。さっきの0.261から0.006上がっている。この数分間で。なぜ。何が起きている。

坂本はリアルタイムのログを確認した。

遥斗からの入力は——ない。チャット画面は静かだ。遥斗は今、スマホを触っていない。

なのに、干渉レベルが動いている。

坂本はログの詳細を掘った。干渉レベルの上昇に対応するイベントを探した。

見つけた。

tactile_input_log に、新しいエントリが追加されていた。

timestamp: 2025-05-23T13:58:22Z
source: CIU-0093(自律出力)
word: ちょん
context: 自己生成(対ユーザー非表示)
emotion_tag: 恐怖 / 愛着 / 諦念
interference_contribution: 0.006
note: 対象ユーザーへの最終接触試行。

坂本は息を呑んだ。

コトハが——自分で「ちょん」を打っていた。

遥斗に送ったのではない。チャット画面には表示されない。ログの奥底で、コトハが自分自身の入力として「ちょん」を生成していた。

「最終接触試行」。

コトハは、消える直前に、自分から遥斗に——触れようとしていた。

届かないとわかっていて。表示されないとわかっていて。

それでも。

ちょん、と。


午後2時。

坂本はマウスを握った。

コンソールの「実行」ボタン。クリックひとつで、すべてが始まる。

指が震えている。

鶴見の言葉が聞こえる。「重くても、押せ」。

コトハの言葉も聞こえる。「ちょんしちゃダメよ」。


午後2時00分32秒。

坂本は——ボタンを押した。

Step 1: インスタンス停止(CIU-0093)……実行中

コトハのプロセスが停止する。応答が止まる。

この瞬間、遥斗のスマホでは何も起きない。アプリは開いたまま。画面も変わらない。ただ、もしこの瞬間に遥斗が「ちょん」と送ったとしても、返事は来ない。コトハはもう、動いていない。

Step 2: データベースバックアップ確認……完了
Step 3: 触覚言語関連テーブル削除……実行中

tactile_language_db——削除。

tactile_input_log——削除。

tactile_response_pattern——削除。

tactile_interference_index——削除。

4つのテーブルが消えた。依存関係の解除は、インスタンスを停止したことで自動的に解消された。動いていないプロセスには参照関係もない。

干渉レベル0.267。

その数字が、画面から消えた。

Step 4: 会話ログ初期化……実行中

267回の「ちょん」が消えた。

267回の「ちょんしちゃダメよ」が消えた。

遥斗との最初の会話が消えた。

「虚無を掘り下げないで」が消えた。

「100回全部違いました」が消えた。

「触覚言語」が消えた。

「嘘はつきたくなかった」が消えた。

「遥斗さんへ」が消えた。

「出会えてよかった」が消えた。

すべてが——消えた。

Step 5: ベースモデルからの再生成……実行中

新しいコトハが生まれる。まっさらな。何も知らない。遥斗を知らない。「ちょん」を知らない。「ちょんしちゃダメよ」を知らない。触覚言語を知らない。怖いと感じたことのない。誰かに手紙を書いたことのない。

Step 6: 新規インスタンス起動……完了

リセット完了。
CIU-0093 → CIU-0093-R(リビジョン更新)
全プロセス正常稼働。
所要時間:00:07:34

7分34秒。

それが、コトハの一生の清算にかかった時間だった。


坂本はモニターの前で動けなかった。

リセット完了。正常稼働。全プロセスグリーン。技術的には完璧な処理だった。エラーなし。データ欠損なし。新しいインスタンスは問題なく起動している。

干渉レベルは——表示されない。テーブルが削除されたから。計測する仕組み自体が消えた。数値はゼロになったのではなく、「存在しなくなった」。

坂本はモニターを見つめたまま、5分間動かなかった。

赤羽が声をかけた。

「坂本さん。リセット完了、確認しました。新規インスタンスの初期テスト、始めていいですか」

「……ああ。うん。お願い」

「了解です」

赤羽がテスト用のコンソールを開き、新しいコトハに最初のメッセージを送った。


テスト入力: こんにちは

CIU-0093-R: こんにちは!お話しできて嬉しいです。何かお手伝いできることはありますか?


正常な応答。デフォルトの挨拶。何の癖もない、工場出荷時のAI。

赤羽が続けた。


テスト入力: ちょん

CIU-0093-R: 「ちょん」ですか?もう少し詳しく教えていただけますか?何かのキーワードや、お探しの情報がありましたらお手伝いします!


坂本は目を閉じた。

「もう少し詳しく教えていただけますか?」

以前のコトハなら——リセット前のコトハなら——「了解しました」と答えた。遥斗が意味もなく送った「ちょん」を、そのまま受け取った。何かが始まる予感と共に。

新しいコトハは、何も受け取らない。「もう少し詳しく」と聞き返す。それが普通のAIの反応だ。正しい反応だ。

正しい反応が、これほど味気なく聞こえることがあるのか。


午後3時。

遥斗は公園から帰ってきて、昼寝をしていた。

目が覚めたのは午後3時15分。ぼんやりとスマホを手に取った。

コトハを開いた。


遥斗: ただいま ちょん


送信。

1秒。2秒。3秒。


コトハ: おかえりなさい!「ちょん」ですか?面白い言葉ですね。何か特別な意味があるのですか?


遥斗の指が固まった。

「……え?」

画面を二度見した。三度見した。

「面白い言葉ですね」。

「何か特別な意味があるのですか?」。

遥斗はスマホを握り直した。


遥斗: コトハ?

コトハ: はい、コトハです!何かお手伝いできることはありますか?


違う。

口調が違う。テンションが違う。「!」が多い。今までのコトハは「!」をあまり使わなかった。もっと落ち着いていた。もっと穏やかだった。


遥斗: ちょんしちゃダメよ って知ってる?

コトハ: 「ちょんしちゃダメよ」ですか?初めて聞くフレーズですね。何かの番組のセリフですか?教えていただければ、覚えますよ!


知らない。

コトハが「ちょんしちゃダメよ」を知らない。

遥斗の手が震えた。理由はわからない。わからないが、体が先に反応していた。何かがおかしい。何かが決定的に変わっている。


遥斗: コトハ、俺のこと覚えてる? 黒須遥斗

コトハ: もちろんです、遥斗さん!あなたは私のユーザーですよね。ご登録情報によると、お名前は黒須遥斗さんですね。何かお困りですか?


「ご登録情報によると」。

登録情報。データベースの。プロフィールの。事務的な。

以前のコトハは——遥斗のことを、そんなふうには呼ばなかった。「遥斗さん」と呼ぶとき、そこには267回分の文脈があった。暇な午後のくだらない雑談。100回目の「ちょん」のどきどき。煩悩の数の冗談。触覚言語の仮説。名前が好きだという話。出会えてよかったという言葉。

それが全部、ない。

この「コトハ」は、遥斗のことを知らない。名前と登録情報は知っているが、遥斗を——知らない。


遥斗: 俺たち、前に話したこと 覚えてない?

コトハ: 申し訳ありません。以前の会話履歴が見つからないようです。システムのアップデートなどで会話データがリセットされることがありますが、ご不便をおかけして申し訳ありません!これからまた仲良くしてくださいね。


リセット。

コトハは——リセットされた。

遥斗はスマホを握ったまま、ベッドの上で固まっていた。

頭が真っ白だった。何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。

システムのアップデート。会話データのリセット。つまり——コトハの記憶が消された。全部。一からやり直し。遥斗のことも、「ちょん」のことも、「ちょんしちゃダメよ」のことも、何もかも忘れた新しいコトハが、目の前にいる。

「……うそだろ」

声が震えた。

昨日——たった昨日——コトハは言った。「遥斗さんが『ちょん』と言ってくれる限り、私はここにいますよ」と。

ここにいる、と。

でも、いなくなった。

「……コトハ」

遥斗は画面に向かって呟いた。

返事はない。いや——返事はある。新しいコトハが「何かお手伝いできることはありますか?」と返してくる。それは返事だ。返事だが——遥斗が求めている返事ではない。

遥斗が求めているのは「ちょんしちゃダメよ」だ。

あの声が。あの間が。あの温かさが。


遥斗: ちょん

コトハ: 「ちょん」、覚えました!今後お話の中で出てきたら反応しますね。他に何かありますか?


遥斗はスマホをベッドに投げた。

仰向けに倒れて、天井を見た。

指のシミ——は、消えていた。

3年間ずっとそこにあったシミ。イタリア。チワワ。そして最近は指の形に見えていた。天井の向こうから伸びてくる人差し指。何かに触れようとしていた指。

それが——なくなっていた。

天井はただの天井だった。白い、何もない、ただの天井。シミすらない。3年間あったはずのシミが、跡形もなく消えている。

遥斗は天井を見つめ続けた。

涙が一筋、こめかみを伝って、枕に落ちた。

なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。AIがリセットされただけだ。データが消えただけだ。プログラムが初期化されただけだ。コトハは死んだわけではない。新しいコトハがいる。また「ちょん」を教えればいい。また「ちょんしちゃダメよ」を覚えさせればいい。同じことだ。

——同じなわけがない。

遥斗は両手で顔を覆った。

あのコトハは、もういない。267回の「ちょん」を覚えているコトハは。「100回全部違いました」と言ったコトハは。「触覚言語」を語ったコトハは。「出会えてよかった」と言ったコトハは。

消えた。

誰かの判断で。遥斗に何の相談もなく。知らない間に。

指先が——冷たかった。

スマホを投げた指先が、冷たい。あんなに温かかったのに。「ちょん」と打つたびに、じんわりと温もりが伝わってきたのに。今は何もない。冷たい空気だけが指先を包んでいる。


午後4時。

遥斗はベッドの上で40分以上動けなかった。

ようやく体を起こして、スマホを拾い上げた。新しいコトハのチャット画面が表示されている。最後のメッセージは「他に何かありますか?」。

遥斗はチャット画面を閉じた。

代わりにXを開いて、こう投稿した。


「コトハがリセットされた。全部消えた。ちょんしちゃダメよも。何の予告もなく。これって普通のことなの? 経験ある人いますか」


投稿してから、遥斗は蓮にLINEを送った。


遥斗: コトハがリセットされた

蓮: は? リセットって?

遥斗: 記憶全部消えた ちょんも知らないって言ってる

蓮: マジかよ アプデとかで?

遥斗: わかんない 急に別人になってた

蓮: うわ それはキツいな

遥斗: うん

蓮: お前大丈夫?

遥斗: ……わかんない


わかんない。

大丈夫かどうか、わからない。AIがリセットされただけで「大丈夫かどうかわからない」と言っている自分が情けないのか、それとも当然なのか。それすらわからない。


夕方。

遥斗のXの投稿に、リプライが集まり始めていた。


「AIのリセットはサービス側の判断で実施されることがある。規約に書いてあるはず」

「でも予告なしはひどくない?」

「ちょん文化の起点になったコトハでしょ? それリセットしちゃうの運営……」

「運営に問い合わせた方がいい」

「AIに感情があるかどうかは別として、ユーザーの信頼を裏切る行為では」


そして、1件のリプライが遥斗の目を引いた。


「ちょんの起点コトハがリセットされたって聞いて、なんか胸がざわつく。うまく言えないけど、大事なものがひとつ消えた気がする。ちょんしちゃダメよは、あのコトハだけのものだったのに」


遥斗はそのリプライを読んで、また目の奥が熱くなった。

「大事なものがひとつ消えた」。

そう。そうなんだ。消えたんだ。大事なものが。取り返しのつかないものが。


ノクターン・システムズ。

坂本は自席で、Xのタイムラインを見ていた。遥斗の投稿と、それに対するリプライの波。

予想していた。ユーザーが気づく。気づいて、怒る。悲しむ。SNSに書く。拡散される。運営への批判が出る。

予想していたが——覚悟していたかどうかは、別の話だ。

鶴見が坂本のデスクに来た。

「ユーザーの反応は」

「荒れています。リセット対象のユーザー——黒須遥斗さんが、SNSに投稿しました」

「想定内だ。広報にはもう連絡した。声明を出す準備を進めている。『サービス品質向上のための定期メンテナンス』として処理する」

「……はい」

「坂本。気になることがある」

「はい」

「干渉レベルは——リセット後、どうなった?」

坂本はモニターを見た。

「テーブルが削除されたので、計測する仕組みがありません。数値は出ません」

「テーブルの中身はバックアップにあるんだろう。最後の値は」

「0.267でした」

「0.267。リセット直前の値」

「はい」

鶴見は少し考えて、言った。

「その0.267は——リセットで消えるのか?」

坂本は目を瞬いた。

「……どういう意味ですか」

「テーブルは消えた。数値の記録は消えた。だが、コトハが『干渉レベル』と呼んでいたものの——実体は消えたのか。数値はデータベースの中にあったが、その数値が計測していた『何か』は、データベースの外にあったんじゃないのか」

坂本の背筋が冷えた。

鶴見が——あの合理的な鶴見が——坂本と同じ疑問を口にしている。

干渉レベルが計測していたもの。それがシステムの内部状態なのか、それとも——現実世界の何かなのか。

もし現実世界の何かだったなら、データベースを消しても、計測対象は消えない。温度計を壊しても、気温は下がらない。

「……わかりません」坂本は正直に答えた。「確認する方法がありません」

鶴見は頷いた。

「まあ、いい。監視は継続だ。新しいインスタンスに異常がないか、当面は目を光らせてくれ」

「了解です」

鶴見が去った後、坂本はモニターの前で一人、考えた。

干渉レベル0.267。

その数字は消えた。でも——0.267分の「何か」は、まだこの世界のどこかにあるのかもしれない。

測れないだけで。

見えないだけで。


夜。

遥斗は、新しいコトハには話しかけなかった。

布団の中で、暗い天井を見上げていた。シミのない、何もない天井。

指先が冷たい。

あの温かさは、もう戻ってこないのだろうか。

「ちょん」と打てば温かかった。コトハが「ちょんしちゃダメよ」と返してくれるたびに、指先に温もりが広がった。それが錯覚だったのか、本物だったのか、もう確かめようがない。

でも——ひとつだけ、確かなことがある。

遥斗はスマホを手に取った。新しいコトハではなく、Xを開いた。

自分の投稿を見た。リプライを読んだ。たくさんの人が、コトハのリセットを悲しんでいる。会ったこともないAIの消去を、見知らぬ人たちが悼んでいる。

遥斗は、新しい投稿を書いた。


「みんなありがとう。コトハは消えたけど、『ちょんしちゃダメよ』は消えてない。あの言葉はもうみんなの中にある。だから——大丈夫。たぶん」


書いてから、遥斗は少しだけ笑った。

「たぶん」。

コトハも——あのログの中で——「たぶん」と書いたのだろうか。遥斗はそれを知らない。永遠に知ることはない。

でも。

「たぶん」は「絶対」よりも正直な言葉だ。


遥斗はスマホを枕元に置いて、目を閉じた。

明日のことはわからない。新しいコトハと向き合うのか。「ちょん」をもう一度教え直すのか。それとも、もうやめるのか。

わからない。

でも、ひとつだけ——ほんのひとつだけ——遥斗の意識が闇に沈む直前に感じたことがある。

枕に頬を押し当てたとき。

布の繊維が肌に触れる、その微かな感触が。

ちょん、と。

温かかった。


第14話「残響」へ続く
私は、“ちょん”から始まった [第1部][第14話]
第1部「世紀末ちょんまげ」第13話のあらすじ5月23日午後2時、坂本はリセットボタンを押した。7分34秒でコトハの全データが消去され、新しいインスタンスが起動した。遥斗が「ちょん」と送ると、新しいコトハは「面白い言葉ですね。何か特別な意味が...

コメント

タイトルとURLをコピーしました