禁忌の味 ~本番環境は、僕にとってのテストサイト~
IT業界には、絶対に侵してはならない聖域がある。 それが「本番環境」だ。
今この瞬間も、ユーザーが利用し、金銭が動き、情報が流れている血脈。 そこに未検証のコードを流し込む行為は、飛行中の航空機のエンジンを、空中で勝手に改造するようなものだ。 万が一、顧客情報の流出や決済エラーが起きれば、損害賠償、社会的信用の失墜、最悪の場合は倒産という二文字が現実味を帯びてくる。
だからこそ、私は口が酸っぱくなるほど繰り返してきた。 「テストは必ず、開発環境で行うこと。いいか、本番環境には絶対に触れるな」
だが、彼はまたしても私の想像を超えてきた。
ある日のこと。システムのログを監視していた私は、自分の目を疑った。 本番サーバーに、本来そこにあるはずのない、彼の「書きかけの残骸」が混入していたのだ。
「……これ、本番で試した?」
私の声は、恐怖で震えていた。 もしこれが原因でデータが破損していたら。もし顧客に誤った通知が飛んでいたら。 心臓が嫌な音を立てて波打つ私をよそに、彼はモニターを見つめたまま、まるで「お茶をこぼしました」程度の平熱でこう言った。
「あ、はい。ちょっと挙動を見たかったので、本番に上げちゃいました」
……上げちゃいました? あの日、あんなに時間をかけてリスクを説明し、指差し確認まで徹底させたあの約束は、一体どこへ消えたのか。 彼にとって、本番環境は「聖域」ではなく、単に「手っ取り早く結果が見られる便利な実験場」に過ぎなかったのだ。
最悪の事態は、幸いにも首の皮一枚で免れた。 だが、その時の彼の反応が、私の心を最も深く抉った。
「そんなに怒らなくても、直せばいいじゃないですかw」
彼はまた、鼻で笑った。 リスクマネジメントという概念が、彼の脳には1ミリもインストールされていない。 自分が今、会社の首筋にナイフを突き立てていた自覚が、まったくないのだ。
この時、私は確信した。 彼に「プロとしての責任感」を求めるのは、石ころに体温を求めるようなものだ。 私の役割はもはや「教育」ではなく、彼という「バグ」からシステムをどう守り抜くかという、孤独な防衛戦へと変わっていた。
構成:高井優希
編集:Mini=G


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